22   2004年5月南座 通し狂言「新世紀累化粧鏡」
更新日時:
2004/05/18 
 
 「新世紀累化粧鏡」を「いまようかさねけしょうのすがたみ」と読ませるのは酷というもので、この通し狂言を二十六年ぶりに上演した国立劇場(2001年3月)でも、関係者は「いまようかさね」という人と、「しんせいき」という人が混在する。
 
 今回の南座は三年前にくらべると、「序幕」、「二幕目」、あわせて時間が1時間ほど短縮されおり、カットを免れたのは「大詰」(第三幕目)くらいである。具体的には「序幕」の第二場と「第二幕目」の第一場、第二場。
国立劇場上演のおり、さんざんにこきおろされた台本の拙さが、今回部分的にカットされたからといって良くなるはずもなく、それでも、原作者・四世鶴屋南北の熱情のかけらをどうにか保てたのは、出演者と大道具のお手柄といえるのかもしれない。
 
 南北ものの、一見荒唐無稽のようにみえて、実は人の心の奥底にひそむどろどろした情念を緻密かつリアルに描いて飽きさせぬ筋書は、単なる猥雑さとは一味も二味もちがう。
この芝居も、わかりやすいように怪談の部分を強調するあまり、阿国御前(福助)がまるで「四谷怪談」のお岩である。そしてまた、累(福助四役の一つ)のキャラクターと描き方が、前回(国立劇場)よりは良くなったとはいえ、依然として自己主張の強い女なのである。
 
 累は主体性のある女ではない、男に食い物にされる女であり、食い物といって憚(はばか)られるなら、食い散らかされる女。そういう性を背負って生きている女という仕組みが南北の眼目であって、色男があわてふためいたり、三百両の金がないからとオドオドしては、食い散らかされる女の惨めさが浮き立たない。
そうなると南北の骨格は骨抜きとなり、突然、阿国御前の霊が累に取り憑くおどろおどろしさ、不気味さがみる者につたわってこない。
 
 では、この芝居がまったくつまらないかというとそうでもない。それは前述のごとく出演者と大道具の工夫によるところ大で、ひとつは福助の五世歌右衛門ゆずりのグロテスクな笑み、橋之助の写楽の浮世絵をほうふつさせる容貌と愛嬌、そしてMr.マリック考案による数々のトリックである。
 
 さて、「序幕・第二場」であるが、阿国御前の化粧の場面が見せ場とはいえ、しつこすぎて髪が抜け落ちるシーンの怖さが半減。恐怖感というのは、だらだらつづくから怖いというものではなく、怖い怖いと見せかけて、怖さを一瞬に凝縮することで効果を上げる。映画「ジョーズ」の成功はそこにある。「ジョーズ」と「歌舞伎」をいっしょにするなとお思いかもしれないが。
 
 「序幕・第三場」の終幕、定式幕が引かれてから阿国御前の宙乗りまでの時間が長すぎて、客席は暗いままとはいえ、気の早い客は幕間かと思って席を立ってしまう。現にそういう客が数人いた。
福助の阿国御前と元信二役に無理があるようにも思うし、総じて段取りがよろしくないようにも思う。次回公演のおりはどうにかしてもらいたい。もっとも、そういう注文を凌駕する阿国御前の宙乗りの長さ、たっぷりとしたサービスぶりではあった。
 
 「第二幕目・第一場」の与右衛門(橋之助)の出。助四郎(愛之助)の下手からの出、なりとようすが決まって上々。この場のこの二人のようすが台本(今井豊茂)の拙さをおぎなった。
累(福助)の花道からの出も女の豊潤な香りが立ちのぼり秀逸。この色気がホンモノなら、あのグロテスクな笑みとで鬼に金棒となるはずであるが、一挙にそうはならず、いまのところは、角々で決めるだけでも上出来である。
 
 「第二幕・第二場」の累の母・妙林(竹三郎)は手の内、こうるさい姑はこの人のものである。とかく時間のかかる通し狂言は、こういったところで眠気ざましに滑稽場面を入れる。役のザワザワしいのは眠気解消剤なのだ。
 
 「第二幕・第三場」は鎌が重要な小道具で、何かにつけて鎌を客の目につくところに見せておき、与右衛門が大鎌を持って花道から出る場面に視覚効果をもたらしている。この大鎌で累を殺害する。
第三場(木津川堤の場)の見せ場はほかにもある。「だんまり」の場面の背景、グレーがかった藤色の空の、なんともいいようのない美しさ、大道具のお手柄である。
 
 「大詰」の「第一場・与右衛門内の場」では、与右衛門の叔父又平(錦吾)が自分の本名が実は与右衛門で、甥(与右衛門実は又平=橋之助)がだらしないから勘当の上、名前も元にもどすという。さすがに錦吾のニンで、緊張感が舞台にみなぎる。国立劇場のときはこの役を芝翫が演じた。ただし、叔父ではなく叔母おりく(未亡人)。叔母でも叔父でもよいが、突然の登場に客は目を白黒させる。こういったところも今井台本の不備。
 
 「大詰」の醍醐味は、いうまでもなく「鯉つかみ」の場での本水をつかった立ち回り。
橋之助という人は、「小笠原騒動」のときもそうであったが、本水をつかうときは妙に生き生きしている。前の方の客席に「かぶりもの」が配られ、客は全員ビニール製の透明カッパをかぶるわけで、それでも橋之助は、油断してかぶりものを下げた客めがけて水を放る。
これがまた見事に命中するから橋之助は大喜び。役者との一体感の生まれる瞬間である。
 
 今回、南座舞台上の滝のある池と、最前列客席との距離はどうしようもなく近かった。幕が開いたら目の前が池であった。おおかた橋之助のリクエストであろう、とんでもない権太くれ、むろん憎めない。筋立てとは別にそうした楽しみが歌舞伎に存在し、そこで役者はサービス精神を発揮し、それが台本の拙さをおぎなうこともあるのだ。それにしても、あれだけ橋之助を喜ばせたのだから、逆出演料をもらいたいくらいのものである。


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