19   2004年10月松竹座 夏祭浪花鑑(一)
更新日時:
2004/10/11 
 
 平成中村座の座頭・勘九郎のニューヨーク公演凱旋記念。役者も演出も同じ顔ぶれ、ニューヨークでは米国人批評家に絶賛されたそうだが、「なつまつりなにわかがみ」の本場で評判がよいかどうか、なにしろ浪花の客は辛口ゆえ。
 
 序幕の前、花道スッポンから米国人ふたり(白人と黒人)がせり上がる。これが実にくだらないギャグの連発。七月、浪花の夏祭はにぎやかそのものだが情緒もある。米国人のわざとらしいにぎやかなナレーションは勘九郎や演出の串田和美もお気に入りだろうことは分かるが、どう逆立ちしても彼らは情緒に欠け、大坂の祭気分に水をさす。
 
 白人のほうはニューヨーク公演にもナレーションを担当していた。凱旋公演だからニューヨークとまったく同じ趣向というのなら東京でやってもらいたかった。大坂(大阪)には東京とは異なった風俗、季節感、生活感があって、歌舞伎舞台に独特の味わいと生気、コクをかもし出しており、でかい声の米語ナレーションはそれらを台無しにする。
 
 「夏祭」の魅力は派手でこってりした演出の妙であり、派手なところは串田演出でもかまわないが、夏祭が単に派手だけで終わるなら、それはもはや上方歌舞伎ではなく、歌舞伎ですらないだろう。「派手」と「こってり」のなかに古風を注ぎ込むことでこの芝居は生きる。
米国人の登場で得たものは自由奔放であり、季節感の喪失である。年がら年中金儲けするのを至上とする国民に夏の浪花の季節感を出せというのは無理というものだ。なににせよ、彼らの登場で季節感はぶちこわしである。
 
 ぶちこわしはほかにもある。平成中村座は概して大道具と音楽へのこだわりをなくしたことで歌舞伎の美的要素を失った。歌舞伎に必要なのは役者だけではない、歌舞伎が総合芸術といわれるのは、音楽、衣装、大道具などが巧妙に役者を引き立てているからで、聴覚や視覚効果が観客を魅了するのに一役も二役も買っているからである。
 
 大道具をこざっぱりすると視覚効果ははなはだしく低減し、義太夫を安物にすれば舞台の逼迫感がいちじるしく衰滅する。それでどうなるかといえば、芝居の面白みを損なう結果となる。義太夫をおさえ、せりふ劇として洗い直すのならいっそのこと、義太夫なしの演出にすればよかったようにも思う。
 
 台風が持ちさったような屋根なしの家では違和感がありすぎるし、修行中の太夫が師匠に稽古をつけてもらっているような義太夫語りでは芝居がだれる。よもや経費削減を目論んだ末の簡素化ではあるまい。そういう演出が平成中村座の常套であるなら仕方ないが。
 
 どうにかならないかと思った演出はほかにもある。プレハブなどで拵(こしら)えた平成中村座なら回り舞台がつかないのは仕方ないとして、松竹座では盆は標準装備。ところが串田演出は盆を回さない。そのかわりに黒子がどやどや出てきて大道具を入れ替える。
盆を回す理由は時間の短縮だけではない、客の目を楽しませること、風情を感じてもらうことも眼目なのだ。黒子も使い方ひとつで効果は上がる、が、こういった使い方ではツヤ消し。
 
 
 序幕第二場「住吉鳥居前」。
 
 舞台中央に団七を演じる勘九郎・中村屋の紋を大きく染めぬいたのれんの床屋、カラッと晴れた夏の空が目に沁みる場面、のはずが、大道具をはぶいているから空がなく青がなく、夏の爽快な季節感がない。
 
 花道から釣船の三婦(弥十郎)、団七女房お梶(扇雀)の出。三婦はかつて団七のような暴れ者であったが、いまや年をとって枯れ、愛嬌の出てきた中高年という役。
弥十郎では義太夫狂言にはほど遠く、ナリも大きすぎて合わないと思っていたが無難にこなす。牢屋から出てきた団七に、「どこからでもない、床からじゃ」と床屋ののれんから首を出す。どこと床はむろんダジャレ。
 
 三婦が去った後に遊女・琴浦(七之助)が登場するのであるが、この琴浦、遊女というよりさらさらした腰元風で、色気がなく水っぽい。琴浦は事件の原因になる女ゆえ、色気のないのは困りもの。琴浦に色気がなければ事件はおきなかったろうに。
ここでの見せ場は床屋前と床屋後の団七。ヒゲの生えたむさ苦しい団七が、月代(さかやき)のそり跡も青々と縮緬浴衣に緋色帯であらわれる。夏らしい季節を感じる場である。
 
 そうこうする内に徳兵衛(橋之助)が出てきて団七と取っ組みあいになる。ここで派手でにぎやかなのは、床几にのるときの団七の下駄飛ばし。団七・徳兵衛が交互に同じ見得をするところが型で、ここは型どおり。お梶がとめに入って落着してみたら、団七、徳兵衛の共通点がわかって、ふたりは互いの片袖を取り交わす。
そのあと、団七とお梶の花道の引っ込みとなるのだが、団七の髪にのこった化粧紙を取ってやるお梶の情が薄い。たっぷりした思い入れがないと花道の引っ込みに余韻を欠く。
 
 序幕第三場「釣船三婦・内の場」(高津神社 夏祭宵宮)
 
 徳兵衛女房お辰(勘九郎二役)は気性のはげしい女である。そして、色気が匂い立つような女である。そのお辰が青日傘をさし、紺の透綾(すきや)、白の帯といった粋で涼感あふれるいでたち、袖口に扇で風を送りながら花道から出てくる。勘九郎のお辰を見たのは平成4年7月の中座、あれから12年たった。
 
 この場の見せ場は、お辰が磯之丞の世話をするについてお辰の色気が邪魔になる(磯之丞は無類の女好き)と三婦がたしなめると、お辰が火鉢にかけ寄り、なかから魚を焼く鉄弓を取り出し顔にあて、三婦をキッと見て、「これでも色気がござんすか」というところである。
勘九郎のお辰はここのところが実にいい。ややしゃがれた声にいいようのない色気と愁いがある。異常ともいえる気性のはげしさゆえの愁いであり、対比が見事。
 
 お辰が花道七三で三婦の女房おつぎに「こちの人の好くのはここじゃない(顔を指さす)、ここでござんす」と言って胸をたたく。これもこの場の見せ場。これは徳兵衛が惚れたのは顔ではなく心だということなのだが、お辰がふと胸より下を見るのは、女の秘所にも惚れたということをほのめかしているのである。そういう心持ちで演じるという口伝があると勘九郎が話していたのを思い出した。   (未完)


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