18   2004年10月松竹座 夏祭浪花鑑(二)
更新日時:
2004/10/16 
 
 江戸歌舞伎と上方歌舞伎のちがいをひとことでいいあらわすのも乱暴な話であるが、江戸歌舞伎は直線的、上方歌舞伎は曲線的といえる。
 
 序幕「住吉鳥居前」の団七と徳兵衛の喧嘩でも、いきなり喧嘩がはじまるわけのものではなく、じゃらじゃら言葉の投げ合いがあって喧嘩をはじめる。江戸歌舞伎の喧嘩はポンポン啖呵を切って威勢がよく、さっさとはじまって、さっさとおわる。直線的なのである。
じゃらじゃら、ふがふがしているのはいわば愛嬌で、喧嘩するにも自分とギャラリーの存在を忘れずサービスする、それが上方歌舞伎である。
 
 団七は魚屋から侠客になったという設定で、助六のように曽我五郎が世をしのぶ仮のすがたとは大違い、魚屋という職業も庶民そのものであるし、侠客といっても底辺に生きるそれである。夏祭のにぎやかさのなかで舅を殺してしまうという筋書もまっすぐではない。
祭や行事のさなかに殺人事件という設定は現代のサスペンス・ドラマに頻出し、新しいはずのものが実は古典の引用であることがよく分かる。
 
 お辰が花道に去った後、義平次(笹野高史)‥団七女房お梶の父‥があらわれ、琴浦を口車にのせて連れ出す。上方では、団七からと偽って手紙を三婦女房おつぎに見せる念の入れようであるが、欲得づくの義平次の醜悪さが出ている。
義平次と入れ替わって団七、徳兵衛、三婦が戻ってくる。徳兵衛と三婦が奥に入った後、おつぎから義平次の一件をきいた団七は血相を変えて表へ走り出す。このとき、追いすがるおつぎを突き倒し、苦しむおつぎを見て、雪駄を左、右と蹴るように脱いで帯のうしろにはさむ手順は面白い。客のほとんどは漫然と見ているが、あの仕草はかなり難しい。
 
 笹野高史の義平次は評価の分かれるところであろう。近年の義平次役者で私の見たのは、助五郎、吉弥(故・坂東吉弥)といったところで、両者とも甲乙つけがたい。ただ、吉弥はいやらしさ、狡猾さは出ても品のなさが出ない。助五郎は脂ぎった執着心、憎々しさは随一だが強欲さが薄い。その点笹野高史は新劇の人、よくもわるくもリアルである。
 
 品のなさ、憎々しさなら義平次は顔、ガラともに笹野高史のもので、「男が立たぬ」を二度繰り返すせりふ回し、憎々しさは出色。惜しむらくはこの人、乾いてはいるが脂ぎっておらず、また、カドカドでの思い入れがないわりには所々でムダな動きが出る。ムダな動きをはぶいてハラでやるところはハラでやるほうが印象も強いのだが。
 
 
 序幕第四場「長町裏の場」
 
 この場は「夏祭」のクライマックスともいえる場。漆黒といってもよいようなわずかな明かりのなかで、団七の予期しない展開となってゆく意外性を、夏の夜、祭の風景といった絵画的なこしらえと相俟って進んでゆく。助五郎はこういう季節の描写を体現するのがうまかった。
「髪結新三」の鰹売りなどは秀逸で、助五郎が半台(魚桶)をかついで花道から出てきたら、初夏のかおりが舞台いっぱいに広がったものである。
 
 団七が舅・義平次を思いあまって殺すまでの芝居を丁寧に見せなければ、この場は夏の夜の衝動的でグロテスクな殺し場にすぎなくなる。団七は腕っぷしは強いが、浪花の気のいい男、舅を立てる気持も充分に持っている。
その団七が義平次を殺してしまうまでの芝居が見所。むっとするような蒸し暑さ、夜の深淵(しじま)のふかさ、かすかな光に浮かび上がる浴衣の縞の色彩感、生死の境にうごめく男たちの汗、総じて、夏のこってりした季節感と風俗、パワフルな生活感をたっぷりと見せる。勘九郎は団七にうってつけなのだ。
 
 団七が、「その金ここには」と手ぬぐいに包んだ石を出し、その手ぬぐいを頭にかぶって消沈するところはさすがに勘三郎ゆずり、うまいものである。義平次にとどめをさす場面、その後の、「わるい人でも舅は親」の述懐まで勘九郎は一気にはこぶ。じゃらじゃら、たっぷり、そして仕上げは一気呵成、それでこそ上方歌舞伎。
 
 第二幕「久郎兵衛内の場」、「同屋根の場」はつけ足しのようで見るべきものはない。あえて探すとすれば、橋之助のハラのある芝居。大詰で舞台のスクリーンに映し出されるニューヨークの繁華街とセントラル・パークを勘九郎、橋之助が駆け回るシーン。これがニューヨーク公演凱旋のおみやげということかもしれない。
 
 平成中村座は、新劇風を吹かせることで歌舞伎の裾野を広げることに成功したようにも思えるが、こんにちのように世の中の評価がコロコロ変わる状況下で、歌舞伎の裾野を広げることによって歌舞伎の醍醐味と心を後世に伝えることができるのだろうか。醍醐味にしても形のあるものではない。
 
 平成中村座が歌舞伎の可能性を直線的に広げたであろうことと、季節感や風俗などの曲線的な風情を歌舞伎にのこすことは別の問題である。時代の変遷とともに失われ、歌舞伎のなかにのみのこった風情。私は、このままだと風情は失われてゆくと思っている。
平成中村座が近未来に新劇と同化する日、私はビデオやDVDをみて、歌舞伎の古き良き時代を偲んでいるのだろうか。 


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