13   2005年7月松竹座 勘三郎&仁左衛門の「沼津}
更新日時:
2005/07/27 
 
 仁左衛門の十兵衛がいい。上方風に愛嬌たっぷりで、味といい色気といい、花道の出から上方の風情がただよい秀逸。また、十兵衛のお供で使用人の安兵衛(助五郎改め源左衛門)が手堅い。安兵衛が「だんはん、ええお天気ですなあ」というと、十兵衛が「ほんに、ええ天気やなあ」といって空(三階)を見上げる。そこにはカラっと晴れた青空が見えるかのようである。
 
 それだけでこの狂言の出来不出来が分かろうというものだが、「伊賀越道中双六」全十段の六段目「沼津」を面白くするのは、ひとえに平作役の芸と味次第。
 
 七十をすぎた老いの身で、若い衆の就くような仕事にありつけず、よんどころなく雲助稼業で細々と暮らしを立てている、律儀で慎ましく貧しく、しかし愛嬌を失わない老人を、勘三郎が上方風にこってり演じて上々吉。せりふ廻しに独特のコクのあるのは父方の祖父(三代目歌六)の血もあろうが、勘三郎の芸熱心と精進のたまものであろう。
 
 十兵衛が茶店で休息しているとき、右手に杖を持った平作の出となるが、十兵衛を見た瞬間、やれ助かったと思い入れをするようす、十兵衛、平作がともに舞台から客席へ降りて、ふたたび花道へかかる道ながらのやり取りの滑稽さ、勘三郎・仁左衛門の息がピタリと合っていてこその面白さもこの人たちならでは。
 
 
 平作の娘お米(福助)との出会いも、平作の愛嬌とみすぼらしさ、十兵衛の色気があって盛り上がる。平作のような老人にこの美形とは、そういう仕草を十兵衛が色気たっぷりにみせるから花が咲き、芳潤な香りが立ちのぼり、それが客席に伝わる。歌舞伎の醍醐味である。
 
 場面はかわって「平作内の場」。赤貧洗うがごとしの平作の居宅。お米の美しさに魅せられ、ついついここまで来てしまった十兵衛。あらためて十兵衛に丁重にお辞儀をする平作をいたわるように、うしろから両手で肩と背中をさするお米。そのときの福助の思いやりのこもったやさしい手の動きが出色。福助もとうとうここまできたかと思わせるに十分な出来。
 
 貧しくとも真摯に生きている親子のかなしくなるような情味、娘への切々たる情愛、深い愛ゆえにおきる悲劇。お米は、情夫のためにいったんは苦界に身を沈め花魁となるが、いままた情夫の仇討ちを助けるべく日々を送っている。
鄙には稀な女ゆえ十兵衛の目にとまったのだ。お米の父への愛は人後に落ちないのであるが、情夫への愛はまた別格。親子は一世、夫婦は二世、そういうハラを福助は持つ。
 
 正式に夫婦(めおと)になっていないだけで、お米にとって夫は夫、平作もそこは認めて許しているのであるが、内心は良夫にめぐまれ幸せな暮らしを立ててもらいたいと望んでいるだろう。しかし、情夫に義理立てするお米が不憫ではあるが可愛い。
そのあたりの、娘に対するいいようのない情愛表現がうまい。老父の慈しみが舞台いっぱいにあふれる。そして、仁左衛門がそれを上手に引き出す役回りを演じている。
 
 夜明け前、十兵衛が出立するとき、平作がお米にいうセリフ、「人間万事芭蕉葉の云々」も情があって、しかも陰影に富む。大詰の「千本松原の場」、花道七三の十兵衛の思い入れもよく、これあればこそ後の愁嘆場も決まり、平作、十兵衛の父子の別れをたっぷりと見せた。
「伊賀越」は近松半二の絶筆、役者が揃えば面白くないわけがない。勘三郎、仁左衛門会心の「沼津」といえよう。 


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