地獄と極楽
 
 地獄と極楽は別のところにあるのではない、地獄は極楽の中にある。逆は必ずしも真ならず、地獄の中に極楽は存在しない。
 
 極楽を知る者のみが地獄を知る。生まれ落ちて地獄しか知らぬ者にどうして地獄を知りえよう。地獄は極楽の渕にあるのではない、極楽のいたるところに点在するのである。不意に突き落とされることもあろう、だが、いきなり背中を押されて落ちたのなら、すぐにそこが地獄と分かるから、なんとか這い上がることもできる。
 
 恐いのは知らず知らずの内に落ち込んでいって、そこが地獄と気づかないこと、あるいは、気づくまでかなりの時間を要する場合である。ゆっくりと、それ以上ゆるやかに進めぬほどゆっくりと地獄への道を辿っていると、運命の階段を識別するのは困難である。それは間違いなく地獄への階段で、着実に一歩一歩降りているのだが、動作が緩慢ゆえに周囲の景色の変化になじんでしまうのだ。地獄にも極楽の余り風は吹く、それがいっそう地獄と気づくのを遅らせる。
 
 ある日、自分のいるのは極楽ではなかったと分かる。しかし、なぜここにいるのかが分からない。どこをどう辿ってここまで来たのかも思い出せない。記憶の糸をたぐってしきりに思い出そうとするのだが、至る所で糸はもつれ、ぷっつり切れている。
 
 身は、色とりどりの明るい極楽色から暗赤色に変わっているのだが、いかんせん自分の姿はみえない。他人の姿なら屈折した心理の裏表、複雑で込み入った性格など、あれだけみえていたにもかかわらず。地獄で自分の姿がみえないと、相手の姿もみえにくくなる。彼らはみな極楽の人間であると思って疑うことがない。強い思い込みも大敵となる。
 
 地獄から極楽へ戻るのは容易ではない。容易ではないがたった一つ方法がないわけではない。それは‥
 
 それは、なぜ、どうしてとか、帰り道は何処とか、記憶の糸をたぐり寄せて云々とかを問題にするのではない、一切の妄執を絶つことによってしか地獄から這い出すのは不可能である。ところがどっこい、これがまた難しい。妄執の在処(ありか)が分からないと絶ちようがないのである。そしてまた、人間である限りにおいて絶てるものと絶てないものがある、そういう理屈を言い出すからさらに難しい。
 
 真実は常に一つとはかぎらず、心は常にまっすぐとはかぎらず、妄執もまた単(ひと)つではなく、しかも折れ曲がっている。だから妄執なのである。まっすぐな心と妄執は互いにコインの裏表、あるいは血を分けた兄弟、不即不離なのだ。
 
 一切の妄執を絶つということがどれほど困難か、極楽にいる時は考えてみたこともない難問が行く手を阻む。東京大学法学部に合格するほうが簡単かもしれない、本気でそう思うのもこんな時だけである。そうして生きる意味とは何かに思い至るのである。
 
 そうなのだ、生きる意味について考え、どんなちっぽけな事にも心を寄せる。自分は往々にして傲慢ではなかったか、相手の立場に立って考えていたか、生きていること、生かされていることへの感謝を怠っていなかったか、そんな事どもにようやく気づくのだ。「天地天明日天月天天一天上」(てんちてんめいにってんがってんてんいちてんじょう)、この世のものはすべてみな生かされている、生かされて生きている。
 
 そのことに気づいた時が地獄から極楽へ再び帰る時なのである。極楽の中に地獄がある。私たちの心の中には極楽も地獄も存在するのである。心が私たちを動かし左右する。だから、心の持ち方がもっとも大切なのだ。それに目覚めた時、妄執はおのずと絶たれ、遙か彼方へと遠ざかっていくだろう。
 
更新日時:
2002/12/09

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