落花狼藉

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 あそびは年とともに変化する。若い頃、といっても、若い頃が何歳までをいうのか人によっても異なるだろうし、世代によっても違うだろう。今の若い人は頻繁に「昔は」とか「若かった時は」などと口にするが、冗談も休み休みにしてもらいたい、君はいま幾つなのか、せいぜい20代であろう、「昔は」というほど人間やってきたの?‥そう問いたい。
 
 私は40代までは若いといえると思っている。若さとは時間を空費してなお時間が余っていると思える時期のことだと考えている。いくら何でも50を過ぎると時間の観念が定まる。そうならないのは時間を空費した経験のない人か、状況判断の全くできない人である。
 
 若い頃のあそびは往々にして時間を空費するそれであるが、時間の観念が定まって時間に目覚めると、あそびは時間を惜しむようなものとなる。なにをケチくさいと思うこともないではないが、肉体というか生理というか、頭とはちがう別の器官がそのように命令し、若い時には存在しなかった回路が思考を変換してしまうのである。
 
 桜は毎年咲く、しかし人はいったん散れば二度と咲くことはない、あそびもまたしかり、刹那的とは分かっていても、時は戻ってこないと囁く何かがいて、刹那に身をゆだねるのだ。
 
 色という文字は本来、男女の交接を表す。深い馴染みを重ねた相手を色と呼ぶのはそういうことである。また、「くなぎ」ということばは婚(くな)ぎであり、性交とか姦淫の意で、くながひは婚合、即ち男女の交わりを意味する。
 
 平安時代末、関白太政大臣藤原忠通の色狂いはつとに有名で、あまたの女房・女官と交接し、産まれた子はすべて僧籍に入れて事をすませていた。忠通の性癖は晩年に至ってもおさまることはなく、侍女と白昼盛んにくながひしているところを目撃されている。時に忠通67歳であったという。
 
 くながひ=落花狼藉というのも妙な話であるが、落花狼藉ということばに色気を感じるのは若さとは縁遠くなったからだと思う。若い人なら、落花狼藉から連想するのは別の事であろう。冬の日、うたた寝をするかわりに、「あそびをせんとやうまれけむ」(梁塵秘抄)と開き直るのも面白い。あそびはひとりでも出来るのである。
 
 ところで、上のしだれ桜の老木二本、男女がくながひし奉っているようにはみえませんか、寝台の上で…。「色」という字が複数あるようにみえるかもしれません。散るまでが花なのです、私たち人間は。 
 
更新日時:
2002/12/17

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