カルメン
 
 世界でもっとも知られているオペラ‥といえば、たぶんカルメンであろう。ストーリーの詳細を知らずとも、序曲や間奏曲は誰しも一度は耳にしたことがあると思う。ハバネラ(恋は野の鳥‥カルメン)や闘牛士の歌(エスカミーリョ)、お前が投げたこの花は(花の歌‥ドン・ホセ)などは、いつ聴いても心が騒ぐ。
 
 カルメンを作曲したジョルジュ・ビゼーのもっとも有名な歌劇であるのに、1875年3月3日パリのオペラ・コミーク座での初演時カルメンは不評で、ビゼーはその3ヶ月後失意のうちに世を去った。同年ウィーン宮廷歌劇場で上演された時は大成功をおさめたというから、ビゼーがもう少し長生きしていれば‥と詮無い事を思う。
 
 さて、カルメンは一にも二にもカルメン女優の出来不出来で全体が決まる。カルメン女優は四拍子そろっていなければならない。顔よし、声よし、姿よしと書けばまるで歌舞伎役者のようだが、これに卓越した演技力が備わっていなければならない。カルメンは男を狂わせる魔力の持ち主ゆえ、色気不足ではとうてい演じ切れないのは当然のこととして、何度みてもそのつど観客を陶然と酔わせる何かが要求されるのである。
 
 初演以来127年、カルメンが上演されればどの歌劇場も超満員、その理由は言うも野暮、奔放で熱情みなぎる美女カルメンに魅了されない男はどうかしている、あと先考えず身も心もトロトロにされてみたい、それが男の秘やかな願望であってみれば。そしてまた、彼女の生き方に羨望を感じない女性がいたらお目にかかりたい。
 
 最近カルメンをみたのは1999年7月2日のびわ湖ホール、英国の旅を終え帰国後二日目のことである。チェコ国立ブルノ歌劇場の引っ越し公演だったが、この時のカルメン女優がひどかった。アリーナ・グリナという、姿形はご昵懇になりたいほどの美女ではあったが、いかんせん歌唱力に難があり、おまけに演技が拙い。男が、すべて投げ打って駆け落ちしても悔いなし、という魅力のかけらもありません。
 
 カルメンは飛びきりの美人でなくてもいいから、男をそそる魔力を身体全体で発散させねばならない。あの時のカルメン女優はそういう性的魅力に欠けたのですな、それをカバーするのは演技力であるべきはずなのだが、その演技力も乏しかった。
 
 幕間(休憩時間)のグランドホワイエ、見巧者の男どもはみな白けきっておりました。興奮さめやらぬ面持ちだったのは、おそらくオペラまたはカルメン初体験の若い女性のみ。 
 
 カルメン女優としてはアグネス・バルツァがつとにその名を知られているが、彼女のメゾは聴く者を納得させるし、演技力が秀逸。ロマ(昔はジプシーと呼んだ)の野性味あふれた、色気が滴(したた)り落ちる風情のあばずれ女カルメンを舞台せましと演じていた。
 
 実は昨晩テレビでカルメンのダイジェスト版(2002年8月・英国グラインドボーン音楽祭)をみた。なんと、アンネ・ゾフィ・フォン・オッターがカルメン!彼女はかつてフィガロの結婚でケルビーノを演じたメゾ。ケルビーノですぞケルビーノ、伯爵夫人に思いを寄せ、スザンナにも言い寄る、軟弱でうわついた少年色事師、カルメンとはまったく違う役。カルメンはいったん惚れたらとことん惚れる、ケルビーノの軽薄さとは月とスッポン。
 
 ところがこのアンネ・ゾフィ・フォン・オッター、カルメンを演じれば当代一と定評のあるバルツァに負けずとも劣らない出来。上記の四拍子が見事にそろい、ケルビーノの時どこに隠していたのか、豊満な肉体をフルに使ってみる者の目を釘付けにした。
 
 人は豹変するというが、オペラの世界にもそういう事はある、歌舞伎の世界同様(現団十郎や愛之助が突然芸道に開花することもある)。カルメンはアンネ・ゾフィ・フォン・オッターに限ります。
 
更新日時:
2002/12/17

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