野球やサッカーなどのスポーツは筋書きのないドラマであるとよくいわれる。それはそうだと思うが、なに、終わってみれば筋書きはできるのである。
「北の国から」への思い入れがとりわけ強かったのは様々な理由があるのだが、ドラマの舞台が富良野であり、富良野に近い美瑛町が、北海道で私の一番好きな町だからという理由に因るように思う。
美瑛町はどの季節も美しい。ただ美しいだけではない、何度も繰り返し車を走らせても飽きることのない道、妖精の歌声やおしゃべりの聞こえてきそうな白樺の雑木林、大きな綿菓子に似たおいしそうな白い雲、緑の川には脂ののった魚、四季それぞれの香(かぐわ)しい空気の匂い、人と同じで気まぐれな風‥などが私を魅了するのだ。
よくできたドラマは役者と風景、音楽で人を惹きつける。とりわけ風景は役者の演技では補えない何かを人にもたらすようである。こころ奪われる風景は役者のせりふ以上の説得力をもつことがある。風景はただちに私たちの心の映像に置きかえられる。
普通とは何か、どういうものか。美瑛町の風景こそ私の子供の頃、近所で見慣れた風景なのである。あれが普通であり日常であったのだ。望まずとも視界にはいってくる風景、人々…。その「望まずとも」というのが私のいいたい「普通」なのである。
身近な場所に普通が存在し、普通の人々と普通の生活、風景に恵まれていたから、癒しを他の場所に求めることはなかった。癒しは「普通」の中に内含されていたし、治癒という医学用語はあったが、癒しなどという造語は存在しなかったのだ。癒しとは精神的安らぎとか慰めを意味するのであろうが、それは日常にしっかりと根をおろしていたのである。
そして普通の人々や風景は変わることがなかった。変わらない人と変わらない風景、それらがたしかに存在するから、私たちは変わることができるのだ。
美しい風景や、思いやりのある人々と出会うためにわざわざ遠くに行かなくても、すぐ近くにあり、それらが日々の生活に溶け込んでいたのである。「普通」は至る所にころがっていた。いま、その普通は近場には望みがたく、遙か遠くの空の下か、ドラマの中にしか存在しないのだろうか。
昭和30年代から始まった建築ラッシュは、自然の破壊と共に人心の荒廃をもたらした。かつて映画やテレビの外にあった普通は、もはやそれらの中にしか求めにくくなっているのかもしれない。私たちは虚構の中につくられた普通をみているのである。そしてまた今日、virtual realityという名の仮想現実が、あるいはメールラッシュ(携帯)が、「普通」を外に追いやり、人心の荒廃を招いているのではないだろうか。
(了)
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