ドラマの周辺 (1)
 
 30年前(1972〜73)のことになるが、NHK金曜ドラマで山本周五郎の「赤ひげ」に出演していた紅景子という、遠の昔に引退した殆ど無名の女優が、倉本聰の発散する強烈なオーラぶりについて語っていたことを思い出した。
 
 紅景子は「赤ひげ」では大原麗子に次ぐ大役をもらっていながら、自分の芸を満足に発揮できず、同ドラマで共演していた後輩の仁科明子や望月真理子のように輝くこともなく、その後数年間NHKの正月番組や高橋英樹の時代劇に出演していたこともあったが、まもなくある演技派俳優の奥さんにおさまってしまった。
 
 倉本聰は時代劇、現代劇を問わず、テレビの売れっ子脚本家として、昭和・平成の大御所的存在となって時代に君臨することになるのだが、彼の書いた脚本の中で誰もが知っているのは「北の国から」であろう。
 
 倉本聰が何度も言っているように、「北の国から」は、普通のことができなくなった時代、そして、普通のことが何であるのか分かりにくくなった時代に投げかけられたドラマである。このドラマが大きな感動を呼ぶのは、まさにその点にあり、普通であることがどれほど美しく、得難いことであるかを訴えている。
 
 田中邦衛演じる黒板五郎は、失うものがないから素直でいれる。失うものがないからやさしくなれるのである。それが普通というものなのだ。この世でもっとも大切なのは家族である。家族以外なら何を失っても大事ない。
 
 失うものがないから子供を虐待する、失うものがないから周囲のものに迷惑をかけたり、悪態をついたりする。それは明らかに普通ではないのだが、彼らには普通というのが何か分からない。それこそがまさしく「普通ではない」のである。筆者は常々普通であることの大切さをいたる所で折にふれ書いているが、若い人には理解されていないようだ。
 
 普通であるなら、倉本聰のドラマをみて感動するシーンは限られてくる。「北の国から」をみながら、最初から最後まで涙を流すとすれば、その人は普通のひとではないだろう。いや、ふだんの行いが普通ではないといったほうがよいのかもしれない。
 
 とはいっても、「北の国から」はもはや単なるドラマの範疇をこえて巨大な詩(うた)である。費やされた歳月もさることながら、配役、演出、カメラ、音楽、背景、細部の隅々すべてに渡り神経が行き届いている。このドラマの高い完成度を思うとき、あぁ、神々は細部に宿り給うのだと納得させられるのである。
 
 このドラマにゲスト出演した俳優がどれほど鼓舞されたことであろうか。ほかのどのドラマに出るときよりも緊張したであろうことは想像にかたくない。相当以上のプレッシャーを感じ、それにもかかわらずそれを克服し、力を漲らせ、充実感へと成していった俳優は少なくないと思う。彼らのその後はそれまでとは違ったものとなったはずである。
 
 今回の「遺言」の岸谷五朗の気合いの入れ方は尋常ではなかった。それは唐十郎にもいえることだが、唐十郎のような突出した役者にそれをいうのは失礼というものであろう。
 
 大根の宮沢りえまでがシュウの心になりきり、シュウを見事に表現していたのである。宮沢りえのファザコンに着目した人の慧眼も見事であるが、彼女の間の取り方が秀逸、宮沢りえの代表作となろう。それと内田有紀、表現力が一気に開花し、将来の大女優への道を一歩あゆみ出したといっても過言ではあるまい。
 
                     (未完)
 
 ※女優「紅景子}(くれないけいこ)はYAHOO検索で約50件の出演作がわかる。
更新日時:
2002/09/10

FUTURE INDEX PAST