思春期
 
 北朝鮮から帰郷された方々のうち、蓮池薫さんが言われたことばの中に、「子供たちは、私たちが日本人であることも、拉致されたことも知らない。突然日本に連れて来たらショックはどうなるか、思春期であることを考え、旅行に行くとウソをついた」というくだりがある。
 
 蓮池さんがつかった思春期に、久しぶりにそのことばの深い意味をおもった。個人差はあると思うが、思春期は13才から17才のある時期に訪れるように思う。春を思うとは名ばかりで、じっさいのところはじれったい思いをするだけの時期ではあるまいか。
 
 何がじれったいかというと、自分がである。かくありたいと思う自分、こうあってほしいと願う自分と生身の自分との間に大きな溝があり、どうあがいてもその溝を埋められないことにじたばたするのである。溝を自力で乗り越えるのは至難のわざであろう。
 
 そしてまた、人、特に親に対して、そうあって欲しいと心に描く親の姿と現実の親の姿は月とスッポン、自分がじたばたする不満の何分の一かを親にぶつける。思春期に達していない子供には、そもそも溝など生じないのでこの種の悩みは介在しない。
 
 18才をすぎると、だいたいは溝と仲良くなるから、無駄なあがきは減少する。ほかにも悩む事がいっぱい出来て、溝を乗り越えるか否かは別の問題となる、またはどうでもよくなる。
 
 中年を越すと、人にもよろうが、溝の存在など忘れてしまっている。あるいは感じなくなっている。そこが恐いところだと思うのだが、私としては思春期は忘れても、溝は憶えていたいと思っている。溝があっても特にじたばたするわけのものではない、ただ、溝を認識することで自らの戒めにしたいと思うからである。
 
 二十才を過ぎて、はたまた三十、四十を過ぎて思春期まっただ中という人もいないではないだろうが、それはそれ、悪いことではない。単にずれているだけのことである。当然のことながら、思春期と青春とは似て非なるもの、青春は骨になるまで続くこともある。灰になるまでなんとやらということもある。
 
 思春期はじたばたと無為に過ごしかねないもの、青春はじたばたしながら有為に過ごすべきもの、と思うだけのことである。思春期も青春も人それぞれ、状況によって、心の持ち方によっていかようにも変化する。
 
 それぞれでないのは空白の有無ではないだろうか。蓮池さんや地村さんのお子さんには物心両面の空白がある。この先どういう展開となろうとも、どうか彼らに力を与え給え、そう心から願ってやまない。
 
 
更新日時:
2002/10/20

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