行間を読む
 
 ワープロで字を書くようになってほとほと困ったのは、肉筆つまり手書きよりずっと肩がこるようになったこと、そして漢字を忘れやすくなったことである。子供の頃からキーボードを指でたたいてきたなら、身体もなじんでいるであろうから、こうも肩はこらないようにも思うのだが、いかんともしがたいものがある。
 
 漢字を忘れやすくなったについては、加齢ということとの因果関係も多少はあるのかもしれない。しかし、手書きでものを書く習慣を続けていたなら、忘れる漢字の数も減っていたのではなかったろうか。
 
 人のことなので声高には言えないが、メールをいただく方の中にも誤字や「てにをは」のいわゆる助詞を間違える人は多く、同音異義語は特に間違いが多い。と、まぁ、人のことだから気づいているのであって、自分の誤字、脱字は見落としているだろうし…ほとんど気づいていないと思う。なに、気づかないから見落としなのである。
 
 さて、誤字、脱字に関してはいわばお互いさまゆえ、寛容の精神に則(のっと)りお許しねがうとして、本題の「行間を読む」に入りましょう。
 
 ずいぶん昔のこと、30年ほど前までの私の口癖の最たるもののひとつが「行間を読んでください」らしかった。らしかったというのも、当の本人は憶えていないからだ。会う人、会う人にバカのひとつおぼえみたいに「行間を…」と言っていたのだろうか。つれあいに聞いたら、何度も言っていたというから間違いはなかろう。
 
 インドの旅の友Kさんにも「行間を読みなさい、行間を」と言ったらしい。彼女の旦那さんは自民党橋本派の代議士だが、小泉さんの抵抗勢力ではない。世論の趨勢という重要な行間を読みとった上でのことなのか。いや、抵抗勢力とならなかったのは単なる偶然なのかもしれない。
 
 私がかつて行間を読むことに固執したのは、行間にこそ作者のこころの裡(うち)が詰まっていると思ったからで、書くという行為は表現力の有無にかかわらず、書き手のこころの裡を忠実に、余すところなく紙面に吐露できるものではないと思うからである。
 
 俳句や和歌、詩は、行間を読まなければとうてい歌や詩に込められた作者の真意を把握できないだろう。行間に流れている作者のおもいをくみ取れるとすれば、行間を読むことによって可なりと思う所以(ゆえん)である。
 
 ところが、この一見面倒臭い「行間を読む」を瞬時に成し遂げる人たちがいる。それはどういう人たちかというと、親兄弟姉妹である。血脈こそが文章に記されていない行間のすべてを読みとり、相手の心情を見事なまでに察し、くみ取ることができるのだ。
 
 先日こんなメールが届いた。「この時期に自分を省みれてよかった…(中略)…いろいろありがとう」 この短い文章の行間に込められた万感の思いを読みとることのできるのは血脈だけなのである。
 
 
 
更新日時:
2002/10/04

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