映画館へ行くのは2020年1月24日以来だ。新型コロナの蔓延中、繁華街に近づくことはなかった。映画館はもってのほか。2026年1月15日、神戸・三宮の国際会館11F「Kino Cinema」で上映中の「おくびょう鳥が歌うほうへ」をみた。舞台はオークニー諸島。ストーリーも俳優もどうでもよかった。英独合作、オークニー諸島が決め手。
2026年1月9日・毎日新聞夕刊「シネマの週末」の映画評は惨憺たるありさまで、単語をつなぎ合わせた評者の感性がみえてきそうな一文。「カメラが主人公の内面に潜り込み」は意味不明、「語り口が新鮮だ」は陳腐。映画をみれば一目瞭然、潜り込んでもいないし、新鮮でもない。
依存症に苦しむ人の多くは自分をもてあましている。そういう点において健康人とかわりはない。主人公(シャーシャ・ローナン)が自分をもてあますことが新鮮で、映画の語り口も新鮮なら、世の中、新鮮だらけである。
子どものころ、父親の精神障害に悩まされ、心に傷を負った主人公はおとなになっても記憶がよみがえり、暗い影を落とす。大学院で生物学を専攻してるが、研究に没頭できないのは、振り払おうとしてもつきまとう影のせいなのか、そうではなく、父の記憶を消したくないのか。拠るべきものは家族なのか。
「苦しみながら立ち直ろうとする一人の女性の姿が立体的に浮かび上がる」はありふれた言い回しで新鮮味に欠ける。酒を飲もうと、酒に飲まれようと、人は何らかの悩みをかかえ、立ち直ろうとしているのではないのか。人はみな平面的ではなく、立体的ではないのか。
映画の原題は「The Outrun」。一般的には「走って追い越す」の意だが、この場合、「逃げ切る」の意だろう。「おくびょう鳥が歌うほうへ」の邦題を思いついた訳者のセンスに呆れる。
当人は洒落たつもりかもしれないが、洒落になっておらず、意表をついたタイトルをつけてやれと命名したのだろう。誰であれ、おくびょうになることはあるし、おくびょうは勇気、決断と背中合わせだ。
役者が役づくりに専念するために何をすべきか。役を追っているようでは、いつ追いつけるかわからない。役が歩けば一緒に歩き、走れば走り、ゴール前で役より一歩か二歩先んじていなければ、役を自分のものとできないだろう。
役に「先を越された」と思わせ、演じる者が一番の理解者になってこそ役は満足する。登場人物は架空の生きものではない、演者と共に生きている。
主人公がヘッドホンで聴く音楽が大ボリュームで流される。これがかなりやかましい。何度も何度もくり返され閉口し、耳を両手でふさぐ。まともに聴いていたら映画の終わる前にぐったりしていたろう。ヘッドホンの場面だけかと思ったら、それ以外のシーンでも大音響。ビートの効いている音楽は若者向けで、高齢者には単なる騒音。
映画の監督はドイツ生まれ、ドイツ育ちの女性ノラ・フィングシャイト(1983−)。上映がドイツだけなら問題なく、評者がドイツ人とかオーストリア人なら好意的な評をするかもしれない。そしてまた、日本の若い評者であれば称賛する人もいる。現に毎日新聞夕刊誌上にいた。
ところがどっこい、英国で好評とはならず、日本でも洋画を50年以上、いや、30年以上みている評者からの讃辞はないだろう。評は評する人間の感性、経験によって裏打ちされる。
主人公シャーシャ・ローナンは英国期待の若手女優である。彼女は弱冠13歳で英国映画「つぐない」(2007)のキーラ・ナイトレイ、ジュノー・テンプルといった英国の名女優、ジェームズ・マカヴォイ、ベネディクト・カンバーバッチなどの男優を向こうに回し、屈折した少女を見事に演じた芝居巧者だ。
それだけではない、群像映画「グランド・ブダペスト・ホテル」(2014)で菓子職人、「レディ・バード」では大詰でアルコール過剰摂取のため救急車で運ばれる主人公をやり、「ふたりの女王 メアリーとエリザベス」(2017)でスコットランド女王メアリー・ステュアートを堂々と演じた。
「ストーリー・オブ・マイ・ライフ=若草物語」(2019)の次女役で四女役フローレンス・ピューと共に単調な青春ドラマを名作に仕立て上げた。「アンモナイトの目覚め」(2020)では古生物学者役ケイト・ウィンスレットと共演、英国きっての名女優に勝るとも劣らない芝居をみせる。
「おくびょう鳥が歌うほうへ」の依存症から脱けだそうと苦悩する芝居はシャーシャ・ローナンにとって「お茶の子さいさい」なのだ。オファーを受諾した心境は、自分はほかの女優にできないことをやる。
依存症に苦しむ姿なら依存症患者の施設へ行って観察すれば、人物像、表情などを会得できるだろう。酔態とか、アルコール飲用をやめて苦しむ演技は重要ではなく、そういう芝居はほかの女優でもできる。
難しいのは、数ヶ月アルコールを絶って再び飲み始めるときのようす、顔つきを、経験もしていない自分がどうやるかである。シャーシャ・ローナンは実地体験でそういう状況に自分を陥らせたのかもしれないと思えるほどで、要するに芝居をしていないのだ。
酒をやめられず、同棲していた男が去って行く。そういうときの女の気持ちをどう表現するか。泣き叫んだり、八つ当たりするのは現実的な面もあろうけれど、所詮三文芝居である。内面で泣き、自分に当たり散らすほうが切実で説得力もある。主人公のうまさはそこにある。
断酒会で知り合った初老の男性から問われる。「断酒してどのくらいですか?」。返事をしたあと彼に問い返す。初老の男は「12年何ヶ月と何日」とこたえ、「やめても楽にならない」と言う。彼女は一瞬おどろいた表情になる。想像と実践の差は大きい。製作者がドイツ人だけでなくてよかった。英国人がかかわれば奥行きが深まる。
主人公は立ち直れるのか。結論は各自に委ねられる。映画の上映時間は2時間弱だが、ムダなシーンが多く、不必要な部分を適宜カットすれば95分程度におさまり、中身のある締まったドラマとなっただろうに。
騒音にすぎない音楽シーンを多用し、現在と回想シーンがめまぐるしく変わり、落ち着きのない作品にしたのはドイツ人監督の責任としかいいようがない。脚本も稚拙。
その反面、撮影が優秀で、リング・オブ・ブロッガー(環状列石)、スカラ・ブレイ、オールドマン・オブ・ホイなどオークニー諸島の名所を主人公に重ねあわせ、葛藤、姿勢をうまく表現した。オークニーは主人公の故郷であり、名所と一心同体という感じが伝わったのはシャーシャ・ローナンとカメラマンのお手柄。
オークニー諸島の自然の厳しさは依存症に悩む人間の心模様だ。そういう観点もないではないけれど、ハイランドやオークニー諸島へ旅した経験者にとっても未経験者にも、撮影されたオークニー諸島の景観は見応え十分。その風景は拙い映画を凌駕し、観るは一時の損、観ぬは一生の損と思わせてくれるかもしれない。
オークニー諸島のホイ島。夏、雲はめまぐるしく変化するが、風はさほど強くなかった。冬は台風なみの風が吹き荒れる。

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