生かされて(二)
 
 イスラムでもっとも気高い宗教的行為は、モスクで夜を徹して祈ることである。イスラム教徒にとって異教徒であるユダヤ教徒やキリスト教徒は、奇しくもエブラハムを共通の祖とするが、エブラハムが「神の友」であるのは、他の人々が寝静まったあとも、彼だけは起きていて祈りを捧げたからだという。
 
 冬の夜空に瞬く星は、ただ美しいだけではない。神秘のベールにおおわれ、悠久のひかりを放つ。神的な瞬間は、人間に霊知が宿ることにより感得することができるが、霊知は人間の努力によって得られるようなものではない。神より放たれ、人間に訪れ、また神に還るのである。
 
 イスラムの詩人ムハンマド・ルーミーは、夜更けて満天の星の下に訪れる神的な瞬間のことを次のようにうたっている。
 
 
まどろみを追い払え 秘密が聖域をいで 我らが血に入らんがために
 
明るく旋回せよ 天体の星たちよ 光へと渦巻きながら魂が昇らんがために
 
宝石よ お前たちの墓所から輝き出て 甘美ないさかいとなって星に向かえ
 
羽ばたき上がれ我が鷹 太陽へと向かえ 闇のなかでためらうことはない
 
ありがたいみなは眠っている 神とわたしだけがこの仕切られた場所に立っている
 
なんという賑わいが明るい星の広場に目覚めていることか すらりとした黄金の琴が鳴る
 
獅子と雄牛と山羊 それにきらきら光るオリオンの刃が光りを競って輝く
 
さそりと蛇は逃げ 冠が合図を送り 乙女は美酒で爽やかに元気づける
 
黙して舌を縛ろう 歓びに酔い 舌を動かさず 語れ今宵は
 
 
 あの流れ星をみてから、一体どのくらい時が経ったのだろう。過ぎ去ればすべて夢のごとしである。果たしてあの流れ星は現実のものであったのだろうか、それとも夢のまにまに出てきたのであろうか。
 
 一位の木の緑がいっそう濃くなる冬の日、父は言った。鳥のほとんどは一位の木の赤くて甘い実を食べずに、毒があるといわれている種を食べる、種だけ食べて実は吐き捨てるのだと。鳥は毒のことを知っているのだろうか…、お前どう思うと。鳥は守られて、生かされて生きているのかもしれないな、父はそうつぶやいた。
 
 俺は金も名ものこせないから文章だけをのこす、そうも言った。いま考えれば随分と勝手な言いぐさであると思うし、とりとめのない親だとも思うが、父ののこした歌を読むとそれとは違う思いに駆られる。父は48歳で死んだ。
 
 
   雪雲よこの迷いつるわが胸の うちなる思い思わざるかや
 
   雪深き野におりきたるオオワシよ 四十路の呪縛ときはなて
 
   吹雪くるいかにや長い夜とても 夜明けのこない夜はなしと知れ
 
   葦原の瑞穂の国には場違いな わが人生は淡雪に似て
 
 
 「雪深き野におりきたるオオワシよ 四十路の呪縛ときはなて」という歌の中で、父は自らが課した呪縛を解いてほしいとは思っていなかったはずである。むしろ解かないでもらいたい、それが自分の望むところだと思っていたに相違ない。雪深い広大な原野に降り立ったオオワシに対して感謝しているに違いないのだ。
 
 私の眼前には、茫洋たる雪原のまばゆい白さと神々しさの中に、一羽の巨大なオオワシが音もなく舞い降りてきて、威風堂々と地上に立った。そして、野生のミンク、キタキツネ、野ウサギ、シマフクロウさえも息をひそめ、身がかちかちになる緊迫感があたりに漲るのを確かめて、再び大空へ飛び去っていったのである。
 
 かれらは恐怖とはまったく別の、荘厳なるものにふれた時の、畏敬のまなざしでオオワシを眺めていたのだった。望むところか、父は呪縛を解いてもらうより、オオワシと共に飛びたいと思っていたのか。深い雪よりも遙かに深いのだ、人の心は。
 
 それから数年たって私も歌をつくった。
 
 
   静けさにふと目ざめれば窓辺には しんしんしんと粉雪のふる
 
   水晶のワイングラスの切れこみに ゆらゆら揺れる雪のつごもり
 
   神が行くこの静謐のしじまから 金色の泪はらはらこぼる
 
   土凍てる真白き朝のとまやにも 美しき伝説赤々と燃ゆ
 
   正月はみな平等に来たるらむ 泪の河を渉る鹿にも
 
                       
                      (了)
 
更新日時:
2002/12/25

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