生かされて(一)
 
 あれからどのくらい時が経ったのだろう。記憶のほとんどは風に浚(さら)われた砂塵と共に消え、疑念の鷹は飛び立ってしまったが、流れ星だけは今でもはっきりおぼえている。
 
 雪雲が白い大陸から音もなく忍びより、一位の木の緑がいちだんとつややかになって、池の水は息をひそめて薄氷にかわる瞬間をまつ夜のことであった。皓々たる月のすぐ横を、銀色の砂糖をいっぱい尾からまき散らしながら、月に負けじと明るく輝き、長い長い飛行をしてくれたのだった。
 
 朝目覚めると、庭の敷石や枯れ草に白いものが降りていたが、都会から土が消えたいま、霜の降り立つべき場所がなくなった。小学校へ向かう道に明るい冬の陽が差し、ゆらゆらと湯気がのぼる光景もみられなくなった。それは、大地に降りた霜がまた天にもどってゆくのである。
 
 冬の夜は何と神秘的な時であったろう。夜の静謐を乱すもの、それは、山から降りてくる木枯らしであり、大きな雹である。決して人であってはならない、文明の利器が吐き出す騒音であってはならない。
 
 夜の木枯らしは時ならぬちびっこギャングである。彼らが去ったあとの水を打ったような静けさ、森羅万象ことごとく会話を中断し、精霊だけがひそかに活動をはじめる夜。夜更けに降る雪は、夜をいっそう静かなものにする。
 
 自然のいたずらの気配を感じて、夜中にふと目をさまし、じっと耳をすます。気まぐれ屋たちはふっと姿を消し、神の無言(しじま)の中に深々とつつまれるよろこびと充足感。もう一度眠りにつくのが惜しいような気がしてしばらく起きているのだが、いつの間にか深い眠りにおちてゆくのである。
 
 流れ星をみた日、水晶のカットグラスに白ワインをなみなみとそそいで飲んだ。まだ飲みはじめたばかりなのに、螺旋状に下から上へ切れ込んでいくカット模様が、グラスの頂上でめらめら燃える炎になり、うすい琥珀色の白ワインが真っ赤な色に変わった。
 
 その夜夢をみた。私はブルターニュを旅している。眼前に大天使ミカエルが翼を折って降りてきたような巨大な修道院がそびえ立っている。夕陽を背にうけ、空全体が幾層もの色に分かれ、上の方から透明感のある水色、藤色、橙色と継ぎ目なく続いて海に溶けてゆく。逆光に黒く浮かんだ大きいシルエットは、子供の頃みたオオワシにも似て荘厳である。
 
 8世紀初頭に司教聖オベールが夢で聖ミッシェルの啓示を告げられたのだ、この地に修道院を建造せしむべしと。爾来800年に及ぶ難工事のすえ、礼拝堂をはじめ幾層もの建物が増築されていった。現在この修道院の立つ小島は車の通れる堤防で海岸と結ばれているが、満潮時には海の中に修道院が茫(ぼう)と浮かんで見えるのだ。
 
 斑雪(はだらゆき)がちらつく季節は訪れる人とて少なく、夕闇につつまれた建物はこころなしか寂しげである。長年にわたり巡礼地として栄えてきたが、小島はかつては陸続きで、ノルマンディーからブルターニュへと連なる森に立つ山であった。あるとき、天地を裂く津波が押し寄せ、森を飲み込み、山は陸と分断されて島になったという。
 
 人はある日、こういうことのために生かされてきたのか‥と分かる。自分が誰を、何を愛してきたのか分かる時が必ずやって来るのだ。そして、心の風景の中に自分自身を見いだすのである。
 
 神さまは、遠慮がちでひかえめな欲望が成就することを待ち望んでおられる。なぜなら、ささやかな欲望はいつも美しい輝きに満ちていて、神さまの目にとまりやすいのである。神さまはそんな人に対して、無言で願いを叶えて下さるのだ。
 
 人間はひどくとらえどころのない存在だと思う。いかようにも変わり、しかも、いかようにも変わることがない。度しがたく、あさましく、しかしそれゆえに、いとおしい。そんなうつろいやすい人間の営みからではなく、普遍の天の営み、星座の運行からこの世のありようを知ろうとしたのは天文学者だけではない。敬虔な信仰者も万物普遍の法則から学び、直感し、洞察したのである。
 
 夜っぴて祈るのは、宇宙や大自然の神的な力とひとつに溶けあって合体したいという願いなのであろうか。深い信仰に根ざした生活を送っている人にとって、祈ることは生きることなのか。祈りということばの持つ不思議な魔力、祈りによって人は守られているのかもしれない。新月の夜、星明りが道を照らすように。
 
                       (未完)
更新日時:
2002/12/24

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