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クローマー(Cromer)は19世紀末にイングランド有数のリゾート地となったが、第二次大戦中、英国内の海浜リゾート地の往来が
禁止され(ドイツ軍の攻撃にさらされるから)、戦後も観光客は激減した。
「ノーフォーク・コースト(後述)の宝石」と銘打っているのは決して誇張ではなく、海岸線も町もステキ、なのに旅行者は少ない。
その少なさが快適なのである。クローマーは人口5000人弱の小さな町。おいしいといわれるカニで名が広まった。
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桟橋を見つめる望遠鏡。夕暮れ。一日で最も美しい時間。
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行くのか、行かないのか。
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ビーチ・ハット(Beach Hut)。Hutは小屋。イングランド版海の家。日本版との相違点はカラフルさと配置のよさ。
遠くに桟橋も見えて絵になる。クローマーの魅力のひとつは長い砂浜と散策路(遊歩道)。
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遊歩道から見る桟橋と海、高台から見る桟橋と海。甲乙つけがたい。
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この空きぐあいが爽快。
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左のふたり、一丁前に磯釣り(正確には桟橋釣り)。続ければ相当の腕前に。
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波のぐあいと明かりのぐあいが微妙にはたらいて、浪の下にも桟橋の候ぞ(平家物語の平時子は「浪の下にも都の候ぞ」)状態。
イングランドは島国なので常に外敵の脅威にさらされていた。中世までイングランドに上陸するのはたやすかったろう。
さしたる要塞は少なく、常備軍の配備も足らず、ローマ軍はイングリッシュ海峡から、バイキングは北海から攻めてきた。
海戦の歴史をひもとくと、外敵に四苦八苦したイングランドのようすがよくわかる。
それはさておき、記憶に残っているのは、小学校低学年のころ奈良県吉野郡竜門村で地元の老人から聞いた壇ノ浦の戦いである。
「見るべきほどの事は見つ」と言って入水した知盛の話。そして知盛の母・平時子の話。
知盛の入水は文楽、歌舞伎の「義経千本桜」で碇の太縄を身体に巻き、碇もろとも海に飛びこむ場面がある。「大物浦」の場だ。
通称「碇知盛」は知盛役の役者にもよるが、当代片岡仁左衛門、中村吉右衛門、そして故市川團十郎の知盛は豪快でよかった。
なかでも仁左衛門の知盛は安徳天皇への情、臣下の礼、断腸の思い、豪壮などすべてが秀逸、比類のない知盛であった。
壇ノ浦に行ったことはなかったけれど、波のうねっている光景や、浪の下の都を見たような気分になったことはおぼえている。
イングランドやスペイン、オスマントルコなどの海戦も興味深いけれど、本邦の海戦もまた。
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サフォークのオールドバラ(Aldeburgh)もノフォークのクローマーも建物が海に接近している。
津波の心配がないからいいようなものの、そしてまたサフォークほどではないとしても、波は絶え間なく陸を浸蝕している。
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クローマーは小舟でのカニ漁が盛ん。
ノーフォークには「ノーフォーク・ジャケット」といって、『縫い込みベルトで胴のぴったりした厚い上着は、広大な水陸両用地域で鴨を撃ち、
あるいは釣糸を投ずるハンターや釣人の伝統的な服装である。』(カザミヤン著「大英国」)ということなのであるが、滞在中、
ノーフォーク・ジャケットを着た人は見かけなかった。時代なのか、時季なのか、時刻なのか、巡り合わせがわるかったのか。
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カニ料理専門店。クローマーは昔からカニがおいしいことで有名らしい。しかし種類も調理法も食べなれたものと異なり、
仰山は食べられない。松江や鳥取の松葉ガニ、福井の越前ガニなど獲れたてのカニを炭火で焼いて食べるか、
オホーツク海で獲れたカニを漁船の釜でゆでて瞬間冷凍、または水冷凍したカニを食すほうがうまい。甘みがちがう。
瞬間冷凍、水冷凍したカニが生簀のカニよりうまいのは、カニは神経質で、生簀にいる間にやせて身が細くなるからだ。
そしてまた、満月の夜に水揚げされたカニ(オス)は、メスとの性愛にふけり、やせ細るので避けたほうがよい。
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まるで創ったような空とビーチ・ハットの組み合わせ。
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クローマーからグレイト・ヨーマス(Great Yarmouth)にむかって北海沿いの海岸線B1159を南東に下ると
こういう風景がつづく。ここはホーシー村(Horsey)近辺。雑草が風にゆれるようすをながめて時は過ぎる。
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クローマーから海岸づたいに5キロほど西へ行くとシェリンガム(Sheringham)。延々と続く海岸線、見はるかす北海。
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ノーフォーク州、サフォーク州を歩く。両州の標高は最も高い地点で約100メートル。ということはすでに30〜35メートル、
最高地点の三分の一は登っている。
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シェリンガムから真西へ約15キロ進んだ地点。
ノーフォーク・コーストの正式名はノース・ノーフォーク・ヘリテージ・コースト(North Norfolk Heritage Coast)。
初夏から夏にかけて潮風はまことに清々しいけれど、それ以外の季節の東風、あるいは北東風は強烈で、
北海からの猛々しい寒気を運んでくる。
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トウモロコシが来たるべき夏の収穫を待っている。
どこから飛んできたのか、種は芽吹き、ポピーの花を咲かせる。
イングランドにかぎらずヨーロッパにおいては、A地点からB地点に移動するとき、
必ずといっていいほどこういう光景と出会う。
何の変哲もないといえばそれまでかもしれないが、小生にとってこの種のものは
子どものころ見た景色に似ていて、ほかのものに代えがたい風景のひとつなのだ。
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英国名物フットパス。フットパスについてはくりかえし記してきたけれど、これがなければイングランドを旅する魅力も半減するだろう。
都市部を歩いていてもお目にかかることはあまりない同好の士が、フットパスに行けばいる。
会話するわけでもないのに、一声かけあったり、目で合図する。それだけで通じる何かがあるのだ。
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イースト・アングリア地方(ノーフォークやサフォーク)は16世紀初頭、フランドル、オランダ、フランスからの
亡命者を受け入れた。大陸の宗教的不寛容と迫害が新教徒を追い立てたのだ。
特にオランダの職人が多く、かれらは古都ノリッチにも移住したが、ノーフォークの農村にも定住した。
その結果、イングランドに豊富な労働力がもたらされ、職種に幅ができたのである。
その名残のひとつが風車で、キンデルダイク(ロッテルダム郊外)の風車群のように多くも大きくもないが、
沼や川沿いにぽつんとたたずむ風車もいいものだ。
日が沈みかけ、冷たい空気が漂ってきた。が、川面にはまだあたたかさが残っていた。
かつて風車は人間と共に暮らしていた。いまはただ川草と暮らすのみである。
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ノーフォークの州都ノリッチはウィリアム1世(ノルマンディー公ギョーム2世)がイングランドを征服した1066年には商業都市として
栄えていたという。8世紀ごろからはじまった交易で富を得ていたのだ。イースト・アングリア王国時代(9〜10世紀)ノリッチには
要塞があったが、デーン人(デンマークの海賊)の襲撃により焼け落ちた。
ウィリアム1世(1027−1087)はノリッチをイングランドのフラッグシップとするため大聖堂建築着手をもくろむ。
大聖堂の土台が仕上がったのはウィリアム1世の死後、1096年。建物はそれから40年たって完成した。
ノリッチ大聖堂は15世紀に修復され、尖塔の高さは100メートル、ソールズベリー大聖堂の123メートルにはおよばないが、
尖塔を支えている塔はロマネスク様式で、ソールズベリーのゴシック様式より古い12世紀初頭の作品。
※現在のノリッチの人口は約17万人。ノリッチはノリッジとも表記します。ここではノリッチを選択しました※
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初めて訪れる町を短時間で知るのは無謀として、時間があれば商店街とか市場に行くことにしている。
そこには必ず地元の人々が往来し、何かを物色するすがたを見ることができる。
主に食料品を買っているとしても、どんな肉や野菜がいかほどあって、いくらの値段がついているか。
買手と売手が生き生きとしているか。そんな他愛のないことでも町の活力を見定める指標になるのだ。
ノリッチ大聖堂の南西にあるロイヤル・アーケードの建物と入口は立派で、地元の建築家ジョージ・スキッパーが設計し、
アーケードの長さ約74メートル(そんなに短い)、アールヌーボー様式のタイルがはめ込まれ、1899年オープンした。
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こんなところに迷いこんでしまった。ロザリー(Rosary)という名の墓地である。
60年くらい前、近所のお寺に墓地があり、春ともなると雑草の昆虫が動きだし、初夏にはさまざまなトンボ、チョウが餌や
花の蜜を求めて集まった。墓地は人影もなく静かだから。しかしほんとうの敵は昆虫少年ではなくクモやカマキリである。
都市部は火葬なので墓掘り人はいなかったが、田舎へ行くと土葬の風習が残っていて、墓掘り人がいた。
なかには頭のおかしい墓掘りもいて、なんとも不気味だった。昼間ゆえいいようなものの、夜に行けるか!
ロザリー墓地は妙に美しかった。生者はどろどろしてどうしようもない面を持っているのに、死者は黙っているからか。
もっとも、静かな死者ばかりではない、生者も顔負けするほど雄弁な死者もいる。
迷いこんだ場所は墓地だったけれど、どこに迷いこんだとしても、あらかじめ計画しているところとは異なる味わいがある。
潤いとでもいうか、感性を試されるとでもいえばいいのか、初めて知った無名の場所であるがゆえに感性を刺激するのか。
どうやって生きてきたか朦朧として思い出せないことが多いのに、さまよった記憶が鮮明に残っているのはなぜだろう。
初夏の風にはげまされ、晩秋の風になぐさめられた思い出が刻印されているからだろうか。
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よく知るということが旅を豊かにする。しかし、川の名も知らない、釣り人がだれかも知らない、なのに忘れられない光景。
ボウバラ村はノリッチの西5キロ。
プリーストリー著「イングランド紀行」に「クロムウェル(オリバー・クロムウェル=清教徒革命の指導者)の鉄騎兵はこの地方(イースト・アングリア)
から募集された。ボクサーから提督にいたるあらゆる種類の戦う男たちの多くは、この地方出身である」と記されている。
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ノリッチ郊外の夕景はどこにでもある風景なのだが、平べったい大地の上はターナーが描いた空と雲
に似ている。昔みた夕暮れのように心地よく、遠くに来たという実感がわいてくる。
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カースル・エイカー修道院跡はスワファムからA1065を北に5キロほど行ったカースル・エイカー村(Castle Acre)にある。
☆カースル・エイカーはカースル・エーカーと表記しているところもある☆
ローマ法王と対立し、英国国教会の創設に邁進したヘンリー8世(1491−1547)が、トマス・クロムウェルの協力を得て、
ローマカトリック約800の修道院を破壊し、修道院の財産を没収したのが1534〜38年。
イングランド全体の土地の約20%(主に修道院所有)が王家のものとなり、その一部は市民に売却され、土地は流動化した。
ともあれ、カースル・エイカーの修道院もそのとき破壊されたが、いまなおロマネスク様式による壮麗な面影をとどめている。
☆修道院跡はカースル・エイカー村の最奥に位置し、村の入口(駐車場}から歩いて10分足らず☆
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オックスバラ・ホール(Oxburgh Hall)はスワファムの南西10キロほどのオックスバラ村にあり、
75メートル四方の正方形の濠のなかに立っている。ホールの台所外側壁面から突き出た煙突はテラコッタ。
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ホールの側面にはテラコッタ(赤土の素焼)の煙突が、濠の外側には整備された庭園、低い城壁と塔、さらに外に芝生の駐車場がある。
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このあたりがかつて湿原であったことの名残。
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これは正真正銘の蛾。
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中庭は1835年に造られたという。
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スワファム(Swaffham)はキングスリンからA47を東南東へ22キロ行ったところにある中世の街並みが残る町。
オックスバラ・ホール&庭園はスワファムの南西10キロに位置する。
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土塁の中心に建つカースル・ライジング(ライジング城=ライジング要塞)は12世紀中葉の要塞。キングスリン(King's Lynn)の北北東6キロ。
エドワード2世(1284−1327)の妻イザベラ(イザベラ・オブ・フランス 1295年ごろー1358)は愛人ロジャー・モーティマーと
結託し反乱軍をサフォークに上陸させた(1326年)。エドワード2世を廃位、息子のエドワード3世を意のままに操ろうとしたが、
エドワード3世は1330年10月、母イザベラとモーティマーに対して戦闘を開始。モーティマーはノッティンガムで逮捕され、1ヶ月後処刑された。
王太后イザベラは一切の権限を取り上げられ、ここライジング城に28年の長きにわたり幽閉される。
※イザベラについての詳細は「イザベラ・オブ・フランス」で検索を※
カースル・ライジングは、800年以上この地に屹立しているわりに保存状態のよさで名を知られている。
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なにかわからないが気になるモノは目につくもので、結局なにかわからないままとしても、いつかそのうちわかるかもしれないなにか。
何気ない風景は記憶の断片となって、とどまることもあり、散り散りに消えてゆくこともあり、旅の終わりになることもある。
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終の棲家にと思いながら、いつか住みたいと願いながら、何年たっても叶わない夢の家。
広い縁側と深い庇のついた数寄屋風の木造純日本建築とどちらかを選べといわれたら頭が痛いけれど。
ノーフォークだけでなく、カントリーサイドの片隅にはわらぶきの古い民家が並び、流麗な切妻を残している。
切妻からのぞく窓の下はツルバラや季節の花でいっぱいだ。これが地上の楽園かもしれない。
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6月初旬だというのに夢からさめた仙翁(センノウ)のつぼみがふくらみはじめている。
時季が来なくても自分の調べを伝えたいのだろうか。つぼみは3週間後に開花するだろう。
旅はいつか終わる。あしたかもしれない。旅の終わりは夢の終わりである。
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