ここにはレセプション・デスクはない。予約客が到着すると、車の排気音に
耳を欹てていたホテルの主人が満面の笑みをたたえながら出迎える。
彼はこの夢ホテルの三代目のオーナーである。祖父の創設したホテルは
父の代に一旦人手に渡ったが、彼が買い戻した。幼い頃から祖父の薫陶を
受けて育ったから、何よりも祖父のホテルが好きだったのだ。祖父がこの
ホテルを強く愛したように…。
 
彼は宿泊客をひと目見て、記憶の中に入っている客のフルネームをいえる。
長年の経験から人種を識別できるのである。西欧に度々みられる、中国人、
ベトナム人、日本人を混同することもなく、、しっかり区別できるのだ。

 
彼は宿泊客との会話をひとつのたのしみにしている。
何を聞かれても対応できるよう、ふだんから読書を怠った事はない。
観光案内や故事来歴といった初歩的なものはいうに及ばず、
欧州の歴史や地理、文化、芸術にも精通している。
 
とりわけアフタヌーン・ティー時の歴史談義を好み、客が得々と
語るさまを嬉しそうに眺める。客が年代を間違えても聞き流し、
相手から乞われた時だけこたえる物静かな態度で接する。
彼の自慢は実はバラ栽培なのだが、品種の違うバラに歴史上
実在した人名をつけている。
 
純白のバラはジャンヌ=オルレアンの少女、象牙色はアナスターシャ、
緋色のバラはディアヌ・ド・ポアチェ、明るい黄色はマリア・テレジア。

 
この西洋牡丹の苗は祖父の故郷シーフォードから植え替えた。
赤い牡丹の名はメアリーであるが、その名はブラディ・マリーを
すぐに連想させるので、鮮やかな赤もたちまち血の色にかわる。
 
ヘンリー8世と彼の最初の妻アラゴン(スペイン)のキャサリンの間に
生まれたメアリーは、イングランド女王即位前まで父に顧みられぬ
母共々惨めな少女時代を送った。母の影響を強く受けたメアリーは、
敬虔を通り越して異常なまでのカトリック信奉者であり、父が訣別した
ローマ教皇と和解し、国内のプロテスタントを徹底的に弾圧した。
 
多数の司教と新教徒が処刑され、イングランドは血の海となるが、
血まみれのメアリーは、いまなおカクテルにその名を残している。

 
夢ホテルの昼食は明るい窓から外の景色を見ながら摂る。
アラカルトも手頃な値段で、つまり一品が1200円〜2000円で、
お昼なら一品で充分な量だ。
セット・メニューのランチも人気で、好みの2品で2300円ほど、
これに5品の中から選べるデザートがつくと約3000円。
いずれもバゲットがついてくる。
 
農園で栽培するイチゴは6月の華、それ目当てに予約する人もいる。

 
朝の光は恵みの象徴のような気がしてならない。
森の木々は地下水を汲み上げ、リフレッシュした
空気を風にのせて運ぶ。朝の光は、自分の輝きの強弱で
森の木々が地下水の量を調節するのを知っている。
 
光もまた森が無駄遣いしないように朝の光量を加減する。
朝の光がやわらかいのはそのためなのだ。
夢ホテルに欠かせないもののひとつが、やさしい朝の光である。

 
朝はその時々でいかようにも変化する。
というのも、夜が様々な顔を持つからである。
夜の深淵(しじま)のなんと蠱惑的なことであろうか。
夜の静謐を乱すもの、それは人間や人間の
手による造作物であってはならない…。
 
夜の深閑たる静けさを破るのは自然であるべきだ。
時ならぬ驟雨、雷鳴、雹、かれらが深い夜を乱舞する。
そして朝は生まれてくるのだ…。夜は朝の母である。
朝が産声をあげる姿はたとえようもなく美しい。
靄に包まれたこの朝焼けのように…。

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