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御霊神社は上御霊神社とも呼ばれ、794年に崇道天皇(「早良親王 さわらしんのう」の追称)を祀ったのが始まり。
仁明(にんみょう)天皇、清和天皇期をへて藤原広嗣、橘逸勢など追加7柱が合祀され、8柱(八所御霊)となりました。
下御霊神社にも同数が祀られています。鳥居には菊紋が入っています。
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863年、勅命により悪疫退散の御霊会が催され、国家と都、皇室守護の社として崇敬をあつめたといいます。
「京都人の密かな愉しみ 夏」(2015年8月15日放送)で、老舗和菓子屋の娘(常盤貴子)と
大学客員教授E・ヒースロー(団時焉jが会話する山門提灯前。
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慈円は「愚管抄」巻第七に「怨霊と道理」と題して次のように書き記しています。(大隅和雄訳「愚管抄」)
「人間の住む世界の苦しみのなかには、怨み憎む者と会う苦しみというのがあって、(中略)
怨霊というものはこの世のすべてについて深く怨みに思う人を仇にしてとりつき、(中略)
怨霊は目に見えることで報復をせず、目に見えない方法で怨みをはらすという点が世間の憎悪とは違う」。
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朱の鳥居の下は「京都人の密かな愉しみ 夏」(2015年8月15日放送)で老舗和菓子屋の若女将(常盤貴子)と
雲水(深水元基)が会話する場所。ドラマとドキュメントを織り交ぜたステキな番組。
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応仁の乱発端の石碑。「御霊合戦」云々の文字は殿が書いたそうな。
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文正2年(応仁元年)1月17日夜、畠山政長は自邸に火を放ち、糺河原(高野川と賀茂川が合流する河原)を
へて、18日早朝、御所の北東に位置する上御霊社(御霊神社)に陣取ります。
「18日夕刻、畠山政長が布陣した上御霊社に畠山義就(よしなり よしひろ)の軍勢が押しよせた。細川勝元は
足利義政からの命令に従い、政長に加勢しなかった。(中略) 山名宗全などは義就に加勢、政長は敗北し、
勝元の屋敷にかくまわれた(呉座勇一「応仁の乱」)。世にいう御霊合戦です。
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西園寺の祖は藤原公季(きんすえ}の子孫・公経(きんつね 1171−1244)で、公経は現在の金閣寺あたりに
広大な山荘(本殿の名が西園寺)を建てるなど承久の乱前後に公武の間を泳ぎ、鎌倉幕府に追従し栄華をきわめます。
鎌倉幕府滅亡後、西園寺家も衰退し、足利義満の北山弟(後の鹿苑寺)建設にともない14世紀半ばにいったん室町に
移転、その後1590年にいまの場所に移されました。
最後の元老といわれた西園寺公望については下のバナー「あっち向いてほい」2019年9月23日「愚管抄」を。
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天寧寺山門の正面に比叡山が見え、山門があたかも額縁のようであることから額縁門と呼ばれるようになりました。
天寧寺は御霊神社のすぐ近くにあるけれど、住所は北区寺町鞍馬口下ル。西園寺も天寧寺も寺町通に面しています。
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一般的には山門正面に本堂とか庫裏がありますが、天寧寺は比叡山を見せるため山門左側に本堂があります。
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庫裏の前にピンクの芙蓉の花が咲いていました。芙蓉の花期は長く、7月〜10月。が、10月28日に
京都で見られるとは思わなかった。芙蓉は一日花です。朝咲いて夕方しぼんでしまう。
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ひっそり咲いているのに白がきわだっています。シュウメイギクはキクの仲間ではなくアネモネの仲間。キンポウゲ科。
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中京区寺町通丸太町下ル。寺町通から下御霊神社を見る。鳥居に菊紋が入っています。
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神社から寺町通を見る。
「御所の鎮守として御霊八所神を祭る。839年出雲路に創建、2度移転したが、1590年豊臣秀吉の
寺社整理に伴い現在の地へ。本殿は寛政期に宮中の賢所を、表門は仮御所の建礼門をそれぞれ移築」
と「観光小辞典 京都」に記されています。
「下御霊神社 歴史年表」に記されている由緒沿革は863年以降に関してのものです。
「御霊八所神」=「八所御霊」は、政争に巻き込まれて憤死した早良親王、藤原広嗣などの人たち。
その怨霊を鎮めるために創建されたのが上御霊&下御霊神社であるとされています。
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