2026/01/03    昭和の風景(十六)
 
 競馬歴は有馬記念(1974)のタニノチカラで始まり、1976〜77年に活躍したテンポイントで終わった。短い競馬歴だったが、優駿馬の速さ、美しさを肌身で知った。
有馬記念(距離2500メートル中山競馬場)のタニノチカラは出走馬中最大斤量(きんりょう)61キロを課せられたにもかかわらず、斤量56キロのハイセイコー、タケホープという2大スターを相手にスタートから先頭を切り、4コーナを回っても快走をつづけ、2着ハイセイコーに5馬身の差をつけ勝利、3着はタケホープだった。
 
 中央競馬には別定戦とハンデ戦があり、桜花賞、皐月賞、ダービー、菊花賞、天皇賞などは別定戦で、競走馬に課せられる斤量(きんりょう)は同一と定められているが、ハンデ戦は概ね賞金獲得額によって、多い馬は重い斤量となる。斤量は騎手の体重(騎手は小柄で50キロ前後)、勝負服、ブーツ、重りなどを合計したもの。
農水省の関連機関である日本中央競馬会の幹部は主に農水省からの天下り、頭が固い。一度決めたルールをかえようとせず、時代にそぐわなくてもそのままにする。
 
 体重460キロの、足が細く長いサラブレッドが60キロ以上の重い荷物を背負い、時速60キロの猛スピードで2400メートルを走る場合、身体にどれほど負担がかかるか考えたことがあるのか。
そのために訓練されているし、優勝回数の少ない馬にもチャンスを与えるためだと彼らはみなし、馬券を買う客は馬の状態、斤量を考慮して購入するので問題なしと考えている。
 
 客の思いはさまざま、単にギャンブルとしか思わない者もいるし、馬に魅了される者もいるのだが、中央競馬会の幹部からみればどうでもいいことなのだろう。要は愛馬精神ゼロということだ。馬を世話し、優秀な駿馬(しゅんめ)を育て、活躍を期した厩務員、調教師は苦々しい思いだったろうが、お上には逆らえない。
 
 栗東トレーニングセンターで調教される競走馬は時速60キロで走らない。全速力で走るのはお終いの200メートル(1ハロン)だ。ハンデ戦は上限を見直すべきで、最重59キロまでにせねばならない。中央競馬会は即刻改定に取りかかれ。競馬中継をみると中央競馬会に文句を言いたくなった。
 
 1975年2月の京都記念(距離2400メートル)でタニノチカラは、斤量63キロながら2着(クラウンパレード)に10馬身以上の差をつけ圧勝。関係者のあいだでささやかれたのは、「リヤカーでも引かせて勝負をしないとレースにならない」である。
競馬の普及に一役買ったのが、実況放送で数々の名言を残した関西テレビのアナウンサー杉本清だ。ハイセイコー関西初お目見えのさい、「京都競馬場の白鳥もうっとり、これが噂のハイセイコーです。どうだハイセイコー、淀の走り心地はどうだ」。
 
 1975年4月、阪神競馬場でおこなわれた桜花賞は現場で見た。テスコガビーが12馬身差で圧勝。タイムも桜花賞レコードだった。杉本清の実況は聞き逃したけれど、後で知った。「後ろからは何も来ない」を絶叫、3度くりかえしていた。
 
 渋谷の雀荘が11月の菊花賞、天皇賞、12月下旬の有馬記念で盛り上がっていたころ、競馬?、そんなものに金を賭けられるかと小生は鼻で笑っていた。
昭和48年(1973)森島という30代半ばのサラリーマンが有馬記念で1着ストロングエイト、2着ニットウチドリの万馬券を当てたとき雀荘は大騒ぎ。やさぐれ風だが人のよい森島氏は麻雀の負け3万円を4倍以上にして取り返した。
 
 1976年の皐月賞はトウショウボーイ、ダービーはクライムカイザー、菊花賞はグリーングラスが勝利。翌年春の天皇賞はテンポイントが優勝した。
そのときの実況で杉本は、「これが夢にみた栄光のゴールだ」と叫び共感を呼んだ。2004年アテネ五輪の体操男子団体で刈屋富士雄が叫んだことば、「これが栄光の架け橋だ」の先駆けである。
 
 そして宝塚記念と連勝。宝塚記念は前年の1着、2着が入れ替わり、トウショウボーイは2着。杉本清がレース前に、「あなたの、そして私の夢が走っています」と言った。
当時住んだいた宝恷s仁川のマンション裏手が阪神競馬場で、1977年初夏、宝塚記念にテンポイント、トウショウボーイが出走、ゴール前に陣取り観戦する。競走馬が怒濤のごとく駆け込むゴール前は経験者にしかわからない迫力。
 
 77年12月の有馬記念ではテンポイントとトウショウボーイ、グリーングラスの3頭が競り合い、テンポイントの勝利した名勝負は忘れがたい。
「中山の直線を流星が走りました。テンポイントです」と実況した杉本清。3着はグリーングラス。この3頭が4着以下を大きく引き離した。
 
 競馬に熱中した3年間、競馬はドラマだった。ハイセイコーは大井競馬場で活躍、負け知らずの6連勝後、中央競馬に移籍した。
1973年、皐月賞とNHK杯に勝利しハイセイコーの人気は沸騰したが、ダービーでタケホープに敗れ、菊花賞ではタケホープとの一騎打ちとなり、写真判定の結果、ハナ差でハイセイコーは2着。同年の有馬記念は前述のストロングエイト、ニットウチドリの後塵を拝し3着に沈む。
 
 翌1974年、タニノチカラの圧勝だったが、競馬ファンの注目はハイセイコー、タケホープのどちらが先着するかだった。ライバルの競演。勝負だけが競馬ではない、ドラマでもあるのだ。しかしハイセイコー、タケホープになく、タニノチカラにそなわっているのは王者の風格だった。
 
 1978年(昭和53年)1月、京都競馬場の日経新春杯でテンポイントの斤量は66.5キロ。ハンデ戦にしてもあまりに重すぎる。第4コーナーにさしかかったところでテンポイントはうしろ左足を骨折、レースを中断した。テレビで観戦していたが、うしろにひっぱられて沈み込むようだった。片足を浮かせ、歩いては止まり、とぼとぼ歩くテンポイントの姿が痛ましかった。
 
 阪神競馬場のパドックで宝塚記念に出場したテンポイントを2度、間近でみた。目が澄み、栗毛の馬体が美しく、見るからに利巧そうだった。ターフ(芝コース)の貴公子の風格をただよわせた名馬・テンポイントが骨折した日、口惜しくてならなかった。テンポイントを死なせたのは中央競馬会だと感じたファンは少なからずいただろう。
 
 テンポイントの不運な死から10年ほど後、「もし朝が来たら テンポイント物語」という記録映像がJRA(日本中央競馬会)から刊行される。テレビでも放送された。
骨折に責任を感じた中央競馬会によるテンポイントへの罪ほろぼし刊行だとしてもすっきりせず、もの悲しくなる。ナレーターは緒形拳、京都競馬場、阪神競馬場でテンポイントが出走した実況は杉本清。
 
 「故障か、故障か、テンポイントは故障か、これは故障か。これはえらいこと、これはえらいことになりました」と実況そっちのけで杉本清が叫んだあの日から48年たち、昭和は遠くなったかのようにみえ、近くにある。4年弱の競馬人生はテンポイントの死とともに終わったが、昭和の風景はつづいている。

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