2025/12/02    昭和の風景(十四)
 
 20代から40代にかけて、人に先んじて行動をおこそうと考えた。できるだけのことを実行しようと思った。1969年夏、ヨーロッパは月並ではあったが、海外旅行自体が普及しておらず、前年亡くなった父の目となり耳となって、28日間のツアーに参加した。
ロンドン〜パリ〜ケルン〜ハイデルベルク〜バーデン・バーデン〜ルツェルン〜ピサ〜フィレンツェ〜ヴェネチア〜ローマ。目の回りそうな駆け足旅行。ほかの町も観光したが、よくおぼえていない。主な都市で2泊とか3泊できてよかった。
 
 大学の売店にポスターが貼ってあり、主催は大学生協。参加者は学生が多く、大学勤務の人たちもいた。羽田発アムステルダム経由ロンドン行きKLM便に搭乗。ウィンザー城やロンドン市内を見学し、ホテルは散策にうってつけのハイド・パークのそば。
 
 ロンドンをツアーバスで発ってドーバーまで行き、フェリーに乗って、フランスのカレーで下船、一路パリをめざす。道中の風景がすばらしく、田舎を見なければフランスの良さがわからないと思えた。バスの運転手はパリまで大柄の中年男性で、なんとドゴール大統領によく似ており、ツアー・メンバーはMr.ドゴールと呼んでいた。
 
 パリ観光の目玉、凱旋門やコンコルド広場、ノートルダム大聖堂は陳腐だったが、ルーブル博の展示物はみごたえがあり、自由行動日の1日目、2日目と見学し、ギメ東洋美術館も入館した。ギメはルーブル博の東洋コレクション。
 
 パリのホテルはチュイルリー公園の近くにあり、ロンドンに続いて団体旅行なのにホテル選びが適切だと感じ、公園散歩をたのしめた。1973年10月、2度目のパリはエッフエル塔の近くのホテルに投宿。
1989年7月上旬、3度目はエリゼー宮の横、サントノーレ通りに面したブリストル。パリでジョルジュ・サンク、リッツ、ホテルプラザと共に噂の高い名門ホテル・ブリストルに泊まったのは、豪華ヨーロッパ旅行を試したいという願望があったから。航空機は香港発券エールフランスのビジネスクラス。
 
 花の都は2度だけで、3度目は朽ちた花に見えた。市の観光課が美観を保ちきれない猥雑化。住民はどの程度感じているのか。日々暮らしていると変化に気づきにくいかもしれない。
10年か15年目に訪れる旅行者は変わりように驚く。美に対して敏感な人は変わりようを嘆き、パリを離れ南仏に転居した人もいるだろう。
 
 1980年代、都市は美を後回しにした。パリも巨大な人口をかかえ、経済が回らなければ市の税収は減る。美とカネは互いに相容れず、収入が減れば、守護されるべき美はなおざりにされる。ギフトショップもお金さえ落としてくれればよいとは思わなかったろうし、市民は迷惑この上ない。
70年代、ノーキョーの日本人観光客が我がもの顔で闊歩したように、80年代は中国人観光客が激増し、パリ市民の憩うカフェに押しよせ大声で話し、傍若無人にふるまい、ひんしゅくを買った。
 
 20世紀末、昼間のパリは薄汚れていた。美しいのは夜。シャンゼリゼ大通りのイルミネーションは芸術的で、ほのかに照らされた裏通り、路地にいたるまで魅力があった。1989年、昭和から平成となり、元号がかわっただけなのに、照明の消えたパリの裏通りみたいな寂しさを感じた。
 
 1972年秋のアフガニスタン、73年夏のインド、同年秋のポルトガル、74年秋のモロッコと旅したのは、ゆるぎない決意によるが、それより強固だったのは母の支援である。旅行資金は母が出してくれた。母に依存していることを否応なく認識させたのは、当時交流のあった女性である。別れたあと手紙にこう書いていた。
 
 「あなたの渇きをいやすことのできる人間は、組織の代表である女ではなく、あなたの母親そのひとのみなのです。書かなくてもよいことを、やっぱり書いてしまいました」。
 
 渇きをいやせるのは資金源と同じ人間ではなく、聡明で先読みする女性はそんなこと百も承知で書いた。あたしにいやすことはできないけど、運命の女性が現われ渇きをいやすだろう。ことばに出さなくてもそう言っているのだ。行間を読めなければ彼女のような聡明な人と長続きしなかったろう。
 
 銀座のイタリア料理店に初めて伴ったとき、隔離感のある隅っこのテーブルへ行こうとしたら、「真ん中の明るいところがいいよ」と言った。「明るいほうがはっきり見えるよ」。率直で明快、そういう人だった。
 
 1996年、伴侶とプラハ、ウィーンなどを旅した。愁いがあり美しかった、昼も夜も。20世紀末、中国人ツアーが来ない時代だからこそプラハもウィーンもかがやいていた。21世紀に入って、パリへの中国人観光客の半数は中欧の町へ移動し、次々と美観を損ねていった。
 
 京都に来る中国人が2015年ごろから激増し、以来、桜も紅葉も彼らが来ない場所で見物するようになった。2017年7月初旬、岡山城見学後、茶店に入ったら中国人大勢が占拠し騒いでいた。
人口はインドにぬかれてもマナーの悪さは世界一。郷に入っても郷に従わない。近年の京都は、しだれ桜の本満寺でさえ中国人だらけ。青龍殿大舞台も危うい。京都御苑は中国人だらけだが、隣接する萩の梨木神社、桔梗の廬山寺は行かないだろう。それでも京都へ行くのがイヤになった。
 
 昭和の風景はすばらしかった。だがそうでない風景もあった。昭和60年8月12日、日航機が御巣鷹山に墜落し、500名以上の乗客乗員が死亡した。助かった4名はすべて女性。小学生の川上慶子さん、客室乗務員の落合由美さん。
 
 翌日、8月14日発の羽田行き日航機を6名分予約し、日比谷公園そばのホテルに投宿、当日夜、日比谷公園の人影のない暗がりに行って御巣鷹山方向に5分間黙祷。15日朝、箱根へ行く。
できるだけ高い場所に行き、御巣鷹山に向け手を合わせた。16日、伊丹空港のジェットウェイを歩いていたとき、隣のジェットウェイの窓から見えた光景を忘れられない。複数の棺が運ばれていたのだ。
 
 最愛の人にもう会えない。きのうは元気だった。喪失感という生やさしいものではない、気が変になる。遺族の気持ちに思いをはせるなどときいたふうなことを言うべからず。経験しなければ絶対にわからない。
 
 航空機が上空でガタガタ揺れたり、エアポケットに入って挙動不審になったり、急降下すると冷や冷やする。墜落現場を取材したわけでもないのに、現場を想像し身の毛がよだった。体験がその瞬間に消滅する悲惨な体験は避けたい。
 
 くじけそうになったとき、1970年から73年まで支えてくれた女性の尽力で乗り切れた。76年以降、一部の時期をのぞいて乗り切れたのは伴侶がいたからだ。出会いがなければどうなっていたか。出会った女性に感謝しています。

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