夜店(よみせ)と書いて人は何を思い浮かべるだろう。70歳以上、50代〜60代、30代〜40代、20代以下で思い描く「夜店」のイメージは異なるのではないか。昭和28年(1953)ごろから昭和35年(1960)ごろまで、夜店はお寺、神社の境内でひらかれた。夜店を営む人々は世間からテキ屋と呼ばれることが多く、香具師(やし)と呼ぶ人もいた。
テキ屋は一般的な小売業者ではなく、縁日になると神社仏閣に姿をあらわす。昼間に境内で夜店の準備をして夕方になると営業を始める。金魚すくい、綿菓子、りんご飴、たこ焼き、輪投げ、プラスチックの面、けずり飴、ベビーカステラ、冷やしあめなど多種多様な露店が境内にならぶ。
夜店の露天商はサーカスと同じで定住せず、転々と場所を移動するらしい。露店準備をする人たちも見た。おおむね若い男女で、なかには祭りに行くような法被を着て、口紅を濃くぬっている女性もいた。
真っ赤な唇の女性は鳶職(とびしょく)が用いるぶかぶかのズボンをはいていたように思う。テキ屋の下働きかもしれず、夜は見かけなかった。
境内使用料として一定額を寺社に納めるという話を何度か耳にしたが、実態はよくわからない。町内の人は「寺銭」(テラセン)とクチにしていたけれど、寺銭は境内に賭博がおこなわれる場所を提供することを指し、夜店の場合はテラセンと言わないだろう。
娯楽の少なかった昭和30年代初め、月に数回ひらかれる夜店は子どもの楽しみ。毎回買うのは綿菓子。たまにりんご飴、けずり飴も買い、喉が渇くので生しょうがの入った冷やしあめもよく飲んだ。
水あめと同じ米飴、砂糖、それにしょうがを足し、釜ゆでした液体を、中央に楕円形のくぼみを掘った大きな氷に入れる。頭がキーンとなるほど冷たかった。冷やしあめのオヤジは陽気で目が大きく、コメディアンふうのおもしろい人だった。
りんご飴のコーティングの赤色は食紅、けずり飴はピーナツ入りの硬菓子をカンナで削って売る。りんご飴は現在も残っているが、けずり飴は消滅した。かろうじてチョコバーのチョコレート・コーティングを除く部分に当時の原型をとどめている。
人だかりのないのが「輪投げ」。誰かが輪投げするときだけ人が集まって見ている。2畳ほどのビニール
シートの上に陶器やプラスチックの人形が置かれ、輪に入れば景品としてもらえる遊び。輪3個で10円。人形を欲しいとは思わなかったから輪投げも挑戦しなかった。が、ある夜、妹が夜店についてきて輪投げをしてくれとせがむ。
50円くらいしか持っておらず、輪投げに投資するのは痛いと思いつつ、10円3個では人形をとらえられるかどうかわからず、思い切って20円にした。
これが次々と成功、うろおぼえだが4個か5個人形をお縄にした。妹は歓声を上げ、野次馬の子どもはどよめいた。記憶がまちがっていなければ、陶器製南蛮人形を狙って成功、そのときは「ヤッター」と思った。南蛮人形以外は妹にあげた。喜んだのなんのって。
以来、夜店に行こうとすると妹がついてきた。夜店で兄は有名人となり、「輪投げ名人が来た」とかなんとか、子どもがはやし立てた。兄は、そんなことで顔を知られても片腹痛い。夜店で買った仮面をかぶってごまかす。
妹は輪投げをしようよと言ったのだが、前回のようにうまくいくかどうかわからない。ぜんぶ外せば赤っ恥。よその子もがっかりする。自分のためにも見物っ子のためにもやらないほうがよい。
家族で年に数回、香港へ行くようになった。小生は香港の夜店にほとんど行かなかったが、妹は行っていた。1983年10月のある日、夕食後、階下のカフェに寄ったおり、妹は鳥の羽の扇子を持ってきた。
当時、春秋おこなっていた寸劇に使えるものを夜店で探していたのだ。オレンジ色の羽毛の扇子を広げる妹、小生と伴侶、元女優、満面の笑みをたたえたKさんの写真が残っている。
あのころの夜店。輪投げなどの遊びで才能を使い果たしたのか、おとなになってさっぱり。

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