昭和30年代半ば〜後半、中学生〜高校生だった小生は頻繁に外国映画をみにいった。「ベンハー」、「007シリーズ」、オードリー・ヘプバーン主演の映画、「太陽がいっぱい」。ジャンルは関係なく、欧米映画はなんでもみて、当時は俳優より映画音楽に魅了された。ストーリーはほとんど思い出せなくても音楽はおぼえている。
最初に買ったレコードは中学時代、「太陽がいっぱい」のサウンドトラック、ニーノ・ロータ作の名曲だった。ニーノ・ロータは後年、映画「ゴッドファーザー」の「愛のテーマ」で有名になる。次に買ったのは「禁じられた遊び」。レコードは買わなかったが、「エデンの東」、「いそしぎ」、「ティファニーで朝食を」でヘプバーンが歌った「ムーンリバー」もよかった。
1970年代、これはと思える映画音楽は「ひまわり」、「ゴッドファーザー」くらいで、名曲に値する音楽が激減した。80年代以降は語るに及ばず。軽音楽も歌謡曲も後世に残りうる曲が生まれたのは60年代から70年代。
60年代にしばしば聴いたのはシルヴィ・ヴァルタンの「アイドルを探せ」。ブルガリア生まれの彼女は弱冠17歳でオランピア劇場に出演した魅力的なハスキー・ヴォイス。オランピア劇場初出演は、大物歌手ジルベール・ベコーに白羽の矢をたてられたからだという。
70年代初めの来日公演で聴きに行ったジルベール・ベコーの歌とエンターテイメントに魅了された。公演は行ってないが、エディット・ピアフの再来といわれるミレイユ・マチューの歌も魅力的だった。「ラスト・ワルツ」や「愛の信条」を堂々と力強く歌い上げるミレイユ・マチューは交流のあった女性と重なる。
高校時代、恋愛はうつろいやすく、はかないものだと思っていた。だが同好会でその女性を見つけて、恋愛は力強いものだと思えるようになり、決して弱音を吐かない、結び目の強い恋愛体験ができた。
いつだったか、その女性が加藤周一の名著「羊の歌」を話題にし、早速買って読んだ。その後、加藤周一の著作はぜんぶ読んだ。文化や世相に関する加藤周一の分析力、文書力は見事というほかなかった。
当時、婦人画報だったと思うが、女性の母親が毎月購読しており、娘までそんなもの読むのかと意外だった。その女性は連載中の「私のヨーロッパ」(犬養道子)を読んでいたのだ。道子は犬養毅の孫である。単行本として1972年に新潮選書となったので買って読んだ。闊達で巧みな文章は一読以上の価値があった。
数年の交流をへた1973年夏、定職につきそこねている自分のふがいなさに呆れ、もう潮時と見切りをつけた。長いあいだ貸していたミレイユ・マチューのLPを返してほしいと彼女の自宅で伝えると、不愉快だと言わんばかりに頬を膨らませた。「返してくれよ」と何度か言っているうちに、「かへしてくえよ」になっていく。みっともなさがあらわれていた。
彼女は、「かへしてくえよ」と芝居がかったクチマネをして返さない。そのとき思った。あのレコードはただのレコードではない、ふたりをつないでいるレコードなのだ。だから返そうとせず頑なに拒んだのだ。
それからどうなったのか思い出せない。根負けしたのか、後日、下落合の住まいに持ってきたのか。どっちにしても小生の手元にもどったはず。翌年暮れ、宝怩フ実家への引っ越し荷物のなかにレコードがあったと記憶している。
「ラスト・ワルツ」の歌詞は五番まである。一番の訳のみ記す。「舞踏会は終わろうとしている。私は去るべきか、残るべきか。私のそばを通りすぎるあなたを見たとき、最後の演奏が終わろうとしていた」。
パソコンのYoutubeで久しぶりにミレイユ・マチューを聴き、「ラスト・ワルツ」は名曲で、彼女が名歌手であることを確認できた。
高校生になって日本の歌手のレコードを買った。ザ・ワイルドワンズの「思い出の渚」(1966)。グループサウンド・ブームのなか、彼らは玄人っぽくなく、結成の中心となった加瀬邦彦に好感をもった。
鳥塚繁樹作詞、加瀬邦彦作曲の「思い出の渚」は詞もメロディも親しみやすく、歌いやすかった。リーダー以外のメンバーは19歳くらいだったと記憶している。
テレビの歌番組にはめったに出演しない。新聞のテレビ番組表にザ・ワイルドワンズと載せても知っている人は少ないだろう。先日、ある歌番組をみていたら彼らが出てきて、鳥塚繁樹がボーカルで「思い出の渚」を歌った。驚いたのは鳥塚繁樹の声、歌唱力が昔と変わっていないことだ。顔の感じは70代後半なのだが。
総じて思ったのは、「ムーンリバー」や「太陽がいっぱい」、「ひまわり」、そして「ラスト・ワルツ」や「思い出の渚」も追懐の曲であるということだ。いまでこそ思い出はいっぱいあるけれど、経験不足の中高生が何を思い出すのだろう。10代の子どもはしかし、哀調のこもった曲に哀感だけでなく、清々しく透徹する何かを感じたのかもしれない。
暗い調子の音楽は暗い人間みたいで感動しない。戦中戦後の動乱期に生まれ育った人間はカネやモノ、心の平安への欲求を持っており、同時に新鮮な風を感じたいという希望もあった。不足の時代には不足を満たそうとする気持ちに支配された。そんなとき暗い雰囲気は退けられて当然である。
だからといって明るいだけの音楽が歓迎されたわけではないだろう。哀感をすべりこませた音楽は心を打つ。歌謡曲「365歩のマーチ」など一連の歌は一時的にもてはやされたかもしれないが、心を打たなかった。哀感のない曲の寿命は短い。
昭和100年の4分の3を生きて追懐する音楽はほとんど10代から20代に聴いた曲。すさまじい数の音楽を聴いたけれど、ラスト・ワルツはそのころの音楽。そんなことを思い出しながら息がつまりそうな猛暑を過ごしている。
暑さが峠を越す前にラスト・ワルツが終わるのか。猛暑が終わってふたたび聴けるのか。いずれにしても、ステキな曲より憎たらしい暑さのほうが強力なのはまちがいなさそうである。
ミレイユ・マチュー。 20代半ばと思われる。

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