2025/05/09    昭和の風景(十)
 
 端午の節句が近づくと父は鯉のぼりを上げた。祖父の畑に太い棒(木柱)を立て、綱を結(ゆ)わえて操作する。
 
 大きな真鯉と緋鯉、子どもの鯉はするすると上がり、3体とも気持ちよさそうに泳ぐ。
泳いでいる姿も楽しいが、父が鯉を上げるのを見るうれしさは飛びきり。子どもの日がやって来た。
 
 棒は納屋に入りきらないので、納屋裏に寝かせてあったように思う。
 
 布の鯉のぼりを畳んで籐の行李(こうり)に収納する。大きな鯉のぼりを何度もたたみ、またたく間に小さくする手際のよさに見とれた。
 
 子どもの日が終わっても、5月下旬まで鯉のぼりはすいすい泳いでいた。
 
 あのころ初夏はゆっくりやって来た。祖父の畑にひらひら飛んでいたモンシロチョウが姿を見せなくなり、逃げ足の速いモンキチョウが往来し、矢継ぎ早にシオカラトンボが縄張りを荒らしに来た。モンキチョウもいつの間にかいなくなり、アゲハチョウが優雅にとまっていた。
 
 小学校の2年生ごろ、ひとりで近所の探訪をはじめた。かくれんぼで使わしてもらう神社への道順を変えればどうなるだろう。迷子になったら困ると思いつつ冒険心を試したい気持ちが勝った。
回り道には小さな店が並んでいた。自転車の修理屋、豆腐屋、金物(かなもの)屋。その一角に氷屋があり、刃が鋭く、長いノコギリで大きな氷を切るようすがおもしろく、店先に立ち止まって見学した。家の冷蔵庫の氷はこうして切り出されるのか。
 
 氷屋は正確に同じサイズの長方体の氷を目分量で切り出してゆく。氷に線を描いていなのに見事だった。シャーという切り出し音が心地よく、汗もひいていった。
大きめの氷は店舗の冷蔵庫用で、小さな氷は家庭用。家庭用は2貫目(7.5キロ)。氷の質量はほぼ水と同じなので、経験と腕があれば大きさを均一にできるのだろう。〔画像の道具は氷用手鉤(てかぎ)〕
 
 配達は氷屋の小僧さんの受け持ち。自転車の荷台に2貫目の氷5個を積み、左右を縄でしばって荷台にくくりつける。配達が終わったらまた同じ作業をくり返す。祖母は勝手口を開け、小僧さんが持ってきた氷をたらいに入れ、冷蔵庫内の上部におさめる。夏の朝、片付けの終わるころ台所はそうしてはじまる。
 
 放課後、運動場に残るより帰宅して草野球に熱中したのはもっとあとのことで、小学校2〜3年生ごろは通年、近くの小川や池で網を使ってフナを採り、春から秋にかけては昆虫採集するなどしてひとりで遊んだ。合間の楽しみが近所探訪。
 
 ある日、しょっちゅうやって来る子どもに氷屋が声をかけてくれた。「坊(ぼう)、切ってみるか」。思いもかけない反面、密かに期待していた。「ノコギリ、使ったことあるか?」と聞かれた。祖父のノコギリを無断で取り出し、細い枯れ木を切ったことがある。
 
 氷は枯れ木のようにうまくいかない。表面がつるんとして体積も大きいし、ノコギリも特殊で子どもの手に負えるものではなかった。ノコギリが長すぎて、あっち向き、こっち向きしてまっすぐになってくれない。氷屋の顔は見なかったが、予想どおりの結果だったと思う。
 
 氷屋は製氷室、冷凍室も見せてくれた。入室直後は冷気が心地よかったけれど、それもつかの間、寒さにふるえ、それでも大量の氷に目を見張り、氷の美しさに感動した。
 
 近所の人の話によると氷屋は復員兵で、戦後まもないころ家業を継いだという。太平洋戦争で負傷し、手や足を失った兵士を当時の人々は傷痍(しょうい)軍人と呼んでいた。
片足をなくした傷痍軍人は道ばたで白衣、白帽姿となって、腕に軍人傷痍記章を巻き、アコーディオンを演奏して日銭を稼いでいた。恩給や生活保護だけでは家族を養えないのだ。両手のない人は口に筆をくわえ絵や文字を書いて施しを受ける。そういう時代だった。
 
 氷屋は傷痍軍人の力になればと考え、路地や通りを仕切る関係者に話をつけたらしい。昨今、戦争を知らない政治家が選挙戦を戦場と、ジャーナリストが安全な現場を戦場とか戦争と声高に叫ぶ。
ぬくぬくと生活し、たらふく食べ、気ままに行動し、恐怖を体感せず、負傷する状況にない者が戦場とは片腹痛い。戦後間もないころ、戦争経験者も未経験者も、戦争の悲惨をわかっている人たちは決して戦場とは言わなかった。
 
 路傍の傷痍軍人を見て戦争を感じた。街の氷屋はやむにやまれぬ気持ちで行動をおこしたのだ。周囲にそういう人々が多くいた。中学生となり、氷屋へ行くことも、見学することもなくなっていった。巷では電気冷蔵庫が売られるようになった。古き良き昭和は心の風景である。

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