2025/01/15    昭和の風景(八)
 
 日本料理の汁物、煮物、うどんなどに欠かせないカツオぶし。
大衆的麺類店はカツオではなく安価なサバのカツオぶしを使う。サバぶしのほうが少量で濃厚、庶民的な味になるからで、高級店でサバぶしが使用されることはないだろう。
 
 カツオぶしの乾燥カツオは凶器になりそうなほどカチンコチン。どうすればカツオぶしになるのか不思議で、祖母が削るところを見学した。6歳か7歳だったと記憶している。
 
 細長い木箱を棚から取り出し、ふたを開け、ごしごしはじめた。カンナの逆パターン。削られたカツオは引き出しの中にたまる。
 
 やりたいと言ったら、指を切らないように念押しされたがやらせてくれた。カツオは曲面、やけに硬い。うまく削れない。均等にならず細かい切れっ端だけが引き出しに落下した。
 
 祖母は味噌汁には安上がりの煮干しを使っていた。煮物にダシ昆布を使うときもあり、裁ちばさみで乾燥昆布を切るパチンパチンという音が耳の底に残っている。
当時、宮崎の親戚から送られてきた枕崎産のカツオぶしを削るのは週に一度か二度、筑前煮ほかの煮物をつくるとき。ダシの味がぜんぜん違った。思い違いでなければ生まれて初めて料理の味にめざめた瞬間である。
 
 祖父は名古屋の料亭の跡取り息子だったが、祖母との結婚を反対され駆け落ち同然で鳥取へ出た。
カツオぶしをたっぷり使えばダシも旨かろうけれど、裕福な家庭に育っておらず、しかも明治18年生まれの祖母は節約を心がけた。
 
 ある日、それまでの味と異なるおいしさの「おでん」を祖母がこしらえた。カツオぶし最後の1本も残り少なくなり、ぜんぶ「おでん」鍋に使ったのだ。そのあと「おでん」はダシ昆布と煮干しの味にもどり落胆した。
自分が誰のおかげで暮らしているかを考えない子ども。誰が自分を支えてきたのか実感するのはかなり時間がたってからだ。落胆したなどとよくも呑気なことを考えたものである。
 
 伴侶が幼いころ、岳父は副業で大阪心斎橋の料理茶屋を買い、義母が女将になっていたことがある。義母はいやいや女将をやらされていたらしい。そのとき板場で料理人が山のような花かつおを鍋に放り込むようすを目撃し、ダシのコツはこれかと会得する。伴侶がいまでも煮物にカツオぶしを大量に投入するのはその影響。
 
 煮物を好む小生にとってダシは必須。昆布、花かつおを欠かしたことがないのは米を欠かさないのと同じ。カツオぶしを削るのは数十年前にやめたが、花かつおは多めに買う。
この先いつまで料理をつくってくれるのか不明であっても、おいしいものを食べさせてもらいたい。古き良き昭和を追懐できるのは、思い出話と惣菜なのです。
 
 子どものころ缶けりをして遊んだ。空き缶をけって、鬼になった子が缶を拾うあいだに隠れる遊びだったような気がする。どこの家にも空き缶のひとつくらいあったが、貧しい家庭の子は缶詰も貴重品だったのか、空き缶が家にない子もいた。そういう子は空き缶を思い切りける。
でどうなるかというと、缶は大きくへこむ。そしてまっすぐ立たなくなり、しかたないから誰かが空き缶を取りに家にもどる。貧しくなくてもバカな子はへこませるのが嬉しいのか力を入れてける。同じ子がまた缶をへこませれば遊びからはずされる。だから加減してける。
 
 近所の子がやって来て、「空き缶あったら、くれへん?」と言った。いいよと言ってあげた。空き缶を集めて業者に買ってもらい小遣い銭にするらしい。高度経済成長前の貧しい時代だった。
 
 宵闇せまる時間になるとだれともなしに遊びをやめる。家に帰ると米は炊きあがっているが、夕飯までもうちょっとで、ハラの虫が騒ぐ。そういうとき祖母は炊きたてのご飯を茶碗によそい、カツオぶしをかけてくれた。
カツオぶしは生きものみたいにふわふわ、ごそごそ動いて形を変える。そこへ少量の醤油をたらす。食べた者にしかわからない昭和30年代前半の懐かしい味。

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