2024/05/13    新入生歓迎旅行
 
 昭和43年4月下旬だったか、古美術研究会・新入生歓迎旅行が実施されたのは。甲府盆地が見渡せる高台にその女性は立ち、甲府出身の先輩・萩原さんに話しかけていた。
何かを尋ね、萩原さんが答え終わると次の問いを投げかける。利発そうで表情も豊か、サックス・ブルーのジャケットがよく似合い、明るく清々しい大村さんは年上に見えたけれど、5月中旬生まれで18歳だった。
 
 その日の夕食後、新入生の自己紹介があり、新入生が何人いたのか、どういう顔ぶれで、各人が何を話したのか思い出せない。車座の真向かいに垢抜けした品のある女子がいて、それが金井さんだった。サックス・ブルーの女性は着がえていたのか、顔のみえない場所に座っていたのか、すがたを目で追ったはずなのに発見できなかった。
 
 男性で記憶に残った先輩は先述の萩原さん、そして川崎さん、石上さん、谷口さん。川崎さんは塩山駅だったか甲府駅だったかで立ち食いそばを食べていた。食べ終わって駅ホームに出てきた千葉県出身の川崎さんは、晩メシ前に軽く食べると食事がすすむと言う。雰囲気、話し方で好人物だと感じた。
 
 川崎先輩(3年生)が建築班のチーフだと知らず、この方のいるところに行こうと思った。後日、各班(彫刻班、建築班、石彫班、庭園班、絵画班)のチーフによるオリエンテーションがおこなわれたが、小生は見学せず建築班に入班。各班は毎月、校内の語学教室を借りて「分科会」という名の勉強会を開いた。
 
 建築班に所属したものの研究に身が入らず、8月上旬の白馬大池・親睦旅行、同月下旬の京都合宿、直後の全体(全班)奈良合宿に参加し、方々歩いた。複数名で行った石舞台。当時は巨石に上ることができた。ひとりで歩いた炎天下の柳生街道。往きは近鉄奈良駅近くでバスに乗り、復りはバスの本数が少なすぎて円成寺から歩いた。
 
 あのころは暑さに強く、脚力もあった。奈良公園そばの日吉館までの距離はまったく苦にならず、日吉館にたどりついたころ配膳中で、あわてて風呂に入って汗を流し、上半身裸の海焼け男は広間を横切って、たまたま早く来た女性二人(金井さん、杉本さん)に見られ、ヘンな男がまぎれこんでいると呆れ顔される。
 
 後年、20代後半から50代前半にかけて車で円成寺へ行く機会が何度もあり、よくもまあ、この長距離を歩いたものだと呆れた。円成寺には運慶作の大日如来があった。夏合宿で初拝観したとき、お顔の半分に薄日があたる大日如来に魅せられた。
 
 感動は長続きしないとしても、受けた感動は思い出となって記憶に定着する。夕食時、日吉館の丼飯を7杯食べたのは、空腹のせいだけでなく感動で血流が盛んになっていたからなのかもしれません。
 
 昭和43年4月初旬から7月初旬、休日は都内探訪を続け、夏休みに入って鳥取・浦富海岸の民宿に泊まり海水浴。帰ってすぐ弟に頼まれ若狭の海水浴場テント生活3泊4日で高校1年の男女6名の付き添いをし、帰宅翌日から中学時代の級友4人の九州一周旅行(佐賀、熊本、長崎、宮崎、鹿児島)に付き合い、8月も旅と合宿に明け暮れた。
 
 昭和43年10月末の日曜、彫刻班の堀岡と企画した古美研野球大会を実施。金井さんに世田谷区民グランドを確保してもらった。古美研初の野球大会は1年から3年まで幅広い層が参加した。うそ寒い日だったが、彫刻班(宮崎さんほか)、石彫班(岩本さんほか)など1年生女子7〜8名が応援に来た。
陽気な梅沢さんが打席に入ったとき、宮崎菊子さんが「梅沢さ〜ん!」と歓声をあげる。途中で駆けつけた金井さんも応援に加わり、投手は左投げの泉田さん、右腕の北脇、藤咲などが剛速球を投げ、捕手は菅(すが=代表幹事)さんと梅沢さん、ショートの石上さんが好守備を見せ、堀岡がホームラン2本を打つなど大いに盛り上がった。
 
 
 小生が2年になる前、代表幹事に就任予定の石上さんから声がかかる。早稲田文庫「茶房」に呼ばれ、同席していた谷口さん(石彫班チーフ&副代表幹事)が「井上は人見知りしないし、社交的」と言って、「渉外幹事を引き受けないか」と提案した。石上さんは、「関東古美術史蹟連盟の幹事も泉田(石上さん谷口さんと同期)と一緒にやってくれ」と言う。新3年生に人材はいるし、2年生が割って入るのはどうかと思った。
 
 2ヶ月ほど前の11月に父を亡くし、昭和44年夏休みは父の目となり耳となり欧州旅行へ出る予定なので、8月下旬の全体合宿に参加できないかもしれませんと言ったら、「合宿はチーフが総括するから問題ない」と応えてくれたと記憶している。
 
 渉外部門は難なくこなせたが、古美術史蹟連盟は忙しかった。先輩の泉田さんは毎月各大学でおこなわれる会合などに出席し、小生は日帰りや一泊の親睦旅行。
日帰りでも一泊でも、まずどこかの喫茶店で集まり、連盟各位の意見を聞いて場所と日時などを決める。出席者は主に共立、跡見、大妻、日本などの女子大生。男子学生は少数。少ないときで15名、多いときは30名くらい。
 
 萩原さんがオブザーバーとして来たいと言うので新宿の喫茶「高野」に同席してもらう。明るく話し好きの萩原さんが座長になると座っているだけでよかった。毎月参加者と過ごす日曜は楽しく、萩原さんも楽しそうだった。
 
 昭和44年も終わりに近づいたころ、彫刻班の2年生チーフ大村さんが意外なことを言った。「井上さん、代表幹事に立候補するなら応援するよ」。小生は堀岡がふさわしいと思っていて、ところが堀岡は秋になって学館に顔をみせなくなった。小生も堀岡も立候補する意志なし。大村さんに「いや、その気ないから」と返事したと思う。
 
 2024年5月12日夕刻、古美術研究会OBで横浜在住の仲間と電話で話した。彼が提供する話題は明るく、時間の経つのを忘れる。その後、小松在住の仲間とも電話で話した。来訪準備していた彼に歓迎されないことを話さねばならず、落胆させ、そのせいか彼の話も陰気になり、小生も心なしか疲れ、彼が何を言いたいのか結局わからなかった。
 
 古美術研究会同期の女性Kさんの話を彼が持ち出し、その方は50年前に命を絶っていた。彼女の死をずいぶん後になって知り衝撃を受けた彼としてはそういう話にふれたくなかったろうが、沖合に流され消えていったブイは浜辺に打ち上げられた。
 
 大村さん、滝戸さん、Kさんの3人が4年生のとき韓国旅行へ行った。慶州、釜山、ソウルをめぐる古代佛教彫刻鑑賞の旅。そこからKさんは大村さんと親しくなり、インド旅行の資金を得るため1年間、大手建設会社に勤めた大村さんは母校の大学院、Kさんが横浜国大の大学院へ入学するまで交流が続く。
 
 昭和48年初夏、小生にKさんの死を伝えた大村さんは喪失感を隠しきれないようすで、小生も愕然とした。無邪気でやさしいKさんがこの世の人でない。まだ23歳か24歳ではないか。悲劇は続いた。Kさんが旅立ってまもなく弟さんも亡くなった。大村さんと小生は茫然自失、言葉を失った。
 
 韓国旅行のさい、韓服(はんぼく)というよりチャイナドレスみたいに膝から上にスリットが入って下腿が見え隠れする衣裳を買って着用、艶然と笑う記念写真。Kさんはピンクのチャイナドレス。誰も知らないKさんの別の顔。
大村さんは緑、滝戸さんは赤。3人とも見事に似合っている。自信を持って着ていたから。そのドレス姿で学生会館に来てもらえないかと大村さん(写真の持ち主)に頼んだら、「それはないでしょう」と笑っていた。
 
 30年以上、封印していた記憶をよみがえらせたのは金沢で古美研の仲間に会った滝戸さんだった。何の話でそうなったかわからない、彼女が彼に伝え、彼は驚き、小生に知らせた。とっくの昔に知ったことだったが初めて聞くふりをした。弟さんのことは伏せた。
 
 かなしい話はもういい。話してどうなるものではない。思い出して暗い気持ちになるだけだ。自己確認のためなら不要。なにをいまさら。暗い過去は人間を美化せず、審美眼を曇らせる。
昭和49年から数年、古美術研究会彫刻班同期のカップルが誕生する。堀岡&滝戸、川端&大村、毛利&佐藤など(敬称略)。同期3組結婚という数字は決して陳腐ではない。
 
 それから50年の歳月が過ぎ去った。新入生歓迎旅行からだと56年。そこに立つとさまざまな想い、人々がよみがえり、初夏の明るい日ざしを浴びる気分になる。美しいもの、明るいことだけを思い出し、心穏やかに残された日々を過ごしたい。

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