2026/03/17    詩仙堂、従兄、加藤周一
 
 京都の詩仙堂に初めて行ったのは昭和43年(1968)だった。白川通りの停留所でバスを降り、東方向のゆるやかな上り坂の途中に「一乗寺下り松」という標識が見えた。東映時代劇の宮本武蔵と吉岡一門が決闘した場所ではないか。手をのばせば届く位置に時代劇の歴史がある。
 
 当時、京都ブームが到来する前の詩仙堂は閑古鳥が鳴く静けさで、平日だったせいか拝観者は数名しかおらず、屋内も庭園もひとり占めに近い状態。下の画像の縁側に、何を考えるわけでもなく1時間くらい座っていたような記憶がある。
 
 その後、詩仙堂に行った回数は数え切れない。昭和50年から60年にかけて、7月から9月、12月から1月を除いてほぼ毎月行ったのではなかろうか。その8割は京都案内人として、2割は個人的に。
 
 同じ場所を訪ねるということでは圧倒的に詩仙堂がナンバーワン、そのつぎは北野天満宮、桂離宮、そして正伝寺、常寂光寺、南禅寺、円通寺、妙心寺。お寺以外なら詩仙堂より回数が多いのは京都御苑。
しかし京都御苑の近衛邸跡の桜が近年インバウンドに席捲され、広大な京都御苑も多数のチャイニーズが傍若無人にうろついて興ざめ。彼らが知らない場所で花見していたが、名所は季節を問わず中国人、中国人。京都なんか行くものか、記憶のなかにあればいいと一昨年決めた。
 
 昨年からは老衰でどこへも行けなくなった。行けるときに行っておいてよかった。行動力のない人間は、行かなくても後悔はない。行けるときでも行こうと思わなかったからだ。クチでは「出かける楽しみ」と行動力があるかのような御託を並べるが、クチだけである。
 
 昭和55年(1980)10月から58年4月まで、京阪神に滞在していた鳥取の従兄と頻繁に京都へ出向いた。多くは遠来の訪問者を案内するため、車3台で団体の来ない円通寺や、団体は来ないが混雑する秋の三千院、二尊院、常寂光寺。詩仙堂はそのころ観光客でごったがえしており、拝観時間終了ぎりぎり、人がまばらになるころあいを見計らって行った。
 
 車の話になると従兄の運転を語らず先には進めない。昭和21年生まれの従兄は小生より3歳年上で、県立鳥取西高を卒業、大阪の大学工学部を受験したが合格せず、浪人して再受験をめざしていたけれど、突然就職してしまった。
昔気質の父親は当時、鳥取県庁の課長で、従兄の行動を見過ごした理由は不明。従兄は父親を輪にかけた「いちがい」(頑固の意)で、父親の説教を聞く耳は持っていなかったろう。
 
 鳥取で自動車免許を取得した従兄は18歳で当時トヨタ・カローラのライバルとして販売された日産サニーを買った。ダークグリーンの小型車は従兄が運転するとドイツ車のような加速感があり、市内から近い浦富海岸(学生時代の海水浴)、鳥取砂丘へ案内してもらったとき、免許取り立てとは思えぬ流麗で円滑、スピーディな運転だった。
 
 ところが数年後、人が変わったような荒っぽい運転になる。スカイラインGTRをかっ飛ばし、未舗装のヘアピンカーブの上り坂を、暴走族も顔色なからしむ速さでガンガン上っていった。
セカンド・ギアでエンジンの回転を上げるとサーキットのレーシングカーの爆音さながらに、けたたましい音を立て猛加速。いいいかげんにしてよと言おうとしたら突然停車した。丘のてっぺんだった。もう道はない。従兄は一言も発さなかった。下りは普通に運転したので安堵。
 
 小生はさまざまな土地を訪れ、そこで会った方たちの運転する車に乗せてもらった。山口県小郡、宇部、広島県尾道、岡山県倉敷、香川県高松、岐阜、東京、札幌、紋別など。
ドライバーは全員が年上で、倉敷と尾道は女性。実家は医者で、倉敷の方は戦中16歳のとき、父親が病院を開業していたソウルで免許を取得。外国車を巧みに操った。尾道はその妹さんで、白洲正子を美人にしたような容貌だったが、軽快な加速、豪快なハンドルさばきだった。
 
 鳥取の従兄は昭和54年(1979)10月から昭和58年5月まで京阪神で暮らし、日常でも、毎月のなだ万夕食会、香港行きなどでも行動を共にする。京都は何度も一緒だった。土地勘抜群の従兄は、碁盤の目になっている京都はおぼえる気がしないと言った。おぼえなくてもわかるという意味だと思うが、案内は小生に一任された。
 
 洛中に南国風の広東料理店があり、京都の寺院や北山、東山、比叡山ほかの見学後寄っていた。香港の中華料理店の味に近かったのだ。ある日、詩仙堂へ行った。従兄は痛く詩仙堂を気に入り、その後も拝観する。そのころ従兄は見違えるほど穏やかになっていた。
緋毛氈を敷いた縁側から庭に降り、従兄は鹿威しのあたりまで行き、そこでしばらく立ち止まるのが常だった。そのときもそうして縁側にもどろうとすると、縁側で下履きサンダルを履こうとしていた男性が顔を上げた。加藤周一だった。
 
 小さく声をあげたかどうかおぼえていないが、顔が驚いていたのだろう、加藤周一はにっこり笑った。それから約3週間後、複数人を京都へ案内したときも詩仙堂へ行き、加藤周一に再び会う。渋い色の茶系のジャケット、先日と色違いのタートルネックのセーターを着ていた。
 
 3週間前の驚き顔をおぼえていたのか、彼はまたにっこり笑った。わずかな期間に2度も出会うのが不思議で調べたら、加藤周一は立命館大学客員教授として日本文学史を受けもっていた。
詩仙堂について新聞に寄稿し、立命館大学の講座ノートは朝日ジャーナルに連載され、後に「日本文学史序説」発刊につながる。朝日ジャーナルは毎週購読し、特にすばらしかったのが平安貴族と平安朝文学に関する文章だった。
 
 詩仙堂、従兄、加藤周一。あの日から45年過ぎた。詩仙堂へ最後に行ったのはいつだったか。従兄は2005年9月、58歳で亡くなった。詩仙堂は憩いの庭。古き良き昭和は記憶のなかに残っている。
 


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