京都の詩仙堂に初めて行ったのは昭和43年(1968)だった。白川通りの停留所でバスを降り、ゆるやかな上り坂の途中に「一乗寺下り松」という標識が見えた。東映時代劇の宮本武蔵と吉岡一門が決闘した場所ではないか。手をのばせば届く位置に歴史がある。いまでも単純なことを喜ぶけれど、19歳のころはもっと単純だった。
当時、京都ブームが到来する前の詩仙堂は閑古鳥が鳴く静けさで、平日だったせいか拝観者は数名しかおらず、屋内も庭園もひとり占めに近い状態。下の画像の縁側に、何を考えるわけでもなく、瞑想にふけっているのでもなく、1時間くらい座っていたような記憶がある。
その後、詩仙堂に行った回数は数え切れない。昭和50年から60年にかけて、7月から9月、12月から1月を除いてほぼ毎月行ったのではなかろうか。その8割がたは京都案内人として、2割は個人的に。
同じ場所を訪ねるということでは圧倒的に詩仙堂がナンバーワン、その次ぎは桂離宮、そして正伝寺、常寂光寺、南禅寺、円通寺。しかしお寺以外なら詩仙堂より回数が多いのは京都御苑。近衛邸跡の桜は近年インバウンドに席捲され、広大な京都御苑でさえインバウンドがうろうろして興ざめ。
桜名所はどこもインバウンドだらけ。病身を押して彼らが知らないところで花見していたが、季節を問わず、いつ行っても人、人、人。京都なんか行くものかと一昨年決めた。記憶のなかにあればいい。
昨年からは老衰やら疲労やらで、京都どころかどこへも行けなくなった。行けるうちに行かなければ、いつ何時どんなことで行けなくなるかわからない。行けるときに行っておいてよかった。
昭和55年(1980)10月から58年4月まで、京阪神に滞在していた鳥取の従兄と頻繁に京都へ出向いた。多くは遠来の訪問者を案内するため、車3台で団体の来ない円通寺や、団体は来ないが混雑する三千院、二尊院、常寂光寺。詩仙堂はそのころ観光客でごったがえしており、拝観時間終了ぎりぎり、人がまばらになるころあいを見計らって行った。
車の話になると従兄の運転を語らず先には進めない。昭和21年生まれの従兄は小生より3歳年上で、県立鳥取西高を卒業、大阪にある大学の工学部を受験したが合格せず、浪人して再受験をめざしていたが、突然就職してしまった。
昔気質の父親は鳥取県庁の課長で、従兄の行動を見過ごした理由は不明。従兄は父親を輪にかけるほど「いちがい」(頑固の意)だった。
鳥取で自動車免許を取得した従兄は18歳で当時開発され販売された日産サニーを買った。鳥取でダークグリーンの車に何度乗せてもらったことか。免許取り立てとは思えぬ流麗で円滑、スピーディな運転だった。
ところが京阪神滞在時、人が変わったような荒っぽい運転になる。スカイラインGTRをかっ飛ばし、未舗装のヘアピンカーブの上り坂を、暴走族も顔色なからしむと思えるほどの速さ。
ローギアでエンジンの回転を上げるとサーキットのレーシングカーの爆音さながらに、けたたましい音を立て猛加速した。いいいかげんにしてよと言おうとしたら、突然停車した。丘のてっぺんだった。もう道はない。
小生はさまざまな土地を訪れ、そこで会った方たちの運転する車に乗せてもらった。山口県小郡、宇部、広島県尾道、岡山県倉敷、香川県高松、岐阜、東京、札幌、紋別など。
ドライバーは全員が年上で、倉敷と尾道は女性。倉敷の方は戦中16歳のとき、父親が病院を開業していたソウルで免許を取得。外国車を巧みに操った。尾道はその妹さんで、白洲正子を美人にしたような容貌だったが、トラックの運転手のようなハンドルさばきで豪快に運転した。
(中断中)

|