「春になると部屋中にライラックの香りが漂った。時間は、朝の7時と夜の7時に鳴る鐘の音が告げた。深く澄んだ音は、石の建物を輪のように駆けめぐり、螺旋階段の上へと鳴り渡った。屋根裏部屋を響(どよ)もすと、再び外を走り、田園を渡り、すべての谷を下った。
そして、その音は、時を刻むかわりに、ここでは時が流れないことを証した。なぜなら、その鐘の音は、いつ鳴り出したのか誰も知らない昔から鳴り続け、悠久の時の果てまで時を刻み続けるであろうから」。
「夢の終わり」(ゲール・E・メーヨー1923−1992 )の「ジュラ」第5章に記された文章を読んだとき鳥肌が立った。翻訳したのは持田鋼一郎。すごい翻訳をする人がいる。
1997年6月、梅田の書店の新刊コーナーで見つけ、書名が気に入り、立ち読みしないで買った。帰宅して貪るように読み、読んでいるうちに短時間で読了するのがもったいないと思い始めた。
明治期から昭和期、ヨーロッパの名作を翻訳し、多くの読者をとりこにした訳者がいることを小生は承知しているけれど、持田鋼一郎の訳は先達を凌駕する名訳ではないだろうか。持田氏はメーヨーと同じ場所に立って風景を見たのではないだろうか。風景を共有したのではないだろうか。
メーヨーは旅人だ。精神に根ざす旅人であるだけでなく、子ども時代から父親に連れられヨーロッパ各地を渡り鳥のごとく転々とした。世界を旅した人たちはおおむね視野が広い。旅の経験の少ない者は視野が狭いと言えば、該当する人は不快だろうが本当のことである。
勤務先と自宅を数十年のあいだ往復し、海外へ旅する機会がなかったか、あったとしても1度か2度という人と、累積70回以上海外へ出て、旅先でさまざまな経験をへた人とでは視野の広さが異なる。視野の狭い人間は固定観念が強い。
学生時代の同好会の後輩女性は25回くらい、30カ国以上海外旅行(団体のツアー)したと自慢気に語っていたが、感性の乏しいその女性は視野が狭い。だが、旅行経験が少なくても感性の豊かな人の視野は広い。最悪の組合わせは、経験も少なく、感性も乏しいことである。
感性が試される場所は意外なところ、もしくは陳腐なところにもある。変化に気づくか気づかないかで試されることもあるのだ。海外旅行に出たら行くべきところは美術館、名所旧跡のみと考えず、スーパーマーケットへ行って、日本とは異なる品ぞろえ、おしゃれなディスプレーと色の取り合わせを見て、何も感じなければ感性はしぼんだまま、固定観念も不変であるだろう。
1年のうち2ヶ月くらい海外に滞在していると、そのあいだに日本で起きた出来事を知らずに過ごす。そういう状況を想像できない者は、日本で起きた事件を知らないと言えば呆れる。そういう知人がいた。想像力と経験は互いにつながっているのだが、経験の乏しい者は想像力も貧弱。
翻って言えば、持田氏はメーヨーと同一の経験をしたわけでないのに、あたかも経験したかのような想像力を翻訳に生かしている。「夢の終わり」を著者、訳者の合作のような気分にしてくれたのは、そういうことに因る。見た者でなければわからない風景を読者に見せているのだ。翻訳の力、恐るべし。訳者の力が不足していれば、まったく違う文章となっていただろう。
「高地プロヴァンス」で、「11月は素晴らしい月だ。春に丘の斜面を白一色に埋めた桜の木々は紅く燃え、地形をなぞり、くっきりと浮かび上がらせる。丈の高いポプラの木々が、長く裾をひくラベンダーの丘を横切り、空を突いて輝く黄の帯になる。あちこちで焚火の青い煙の小さな渦が立ち昇る」。
「ジュラ再訪」に、「ほとんどの県で住民は地元の建築様式を守ろうとしているが、ジュラの住民はその意識が欠けている」と記し、「しかしそれにもかかわらず、ローマ時代の街道沿いのジュラは、真のおのれの姿を失ってはいない。人に知られぬ静かな湖、鬱蒼と茂った森、百合の花咲く国である」。
「ジュラを離れる前、娘と私は思い出をたどる目じるしをさがして森のなかを歩きまわった」。
「トリュフが育てられる以前には、森で見つけた農夫が焚火の燃え残りや灰の中で蒸焼きにしたものだった。これがトリュフが評判になる始まりだった」。
「高地プロヴァンス再訪」では、「俗世の音が絶えた夜に、地面から立ち昇ってくるのは、あの古代の静寂だった」。
メーヨーの名文、持田氏の名訳は「夢の終わり」だけにとどまらなかった。「ガンとともに生きる」でも読者を惹きつける。「苦悩に彩られた夕暮の中で暮らしていた」は情景が浮かんできそうだ。
スペインのバールで、「男たちはあきらかに貧しかったが、自然な威厳を備えていた。空や運命について語り、世界のどこでもお目にかかる利益追求の話はまったく話題に出なかった」。
スペイン・バスク地方の小さな漁村出身の男(デザイナーのバレンシアガ)はメーヨーのデザインしたドレスを買い取り、店を起ちあげる。カルヴァンもメーヨーがデザインしたドレスを買い上げた。
「秋になると、セイヨウイチイの生垣にかかったクモの巣が、キラキラ光る雨の滴を宿し、黄色くなった葉や紅くなった実の発する白くモヤのかかった小さな光の束が生垣を包んだ」。
「私はさらに多くのイチジクを池の土手に植えた。イチジクは手のような大きな葉を茂らせ、濃淡のはっきりした線画を思わせる黒い影を白い石の上に落とした。冬になるとなめらかな灰色の枝が美しかった」。
「人は孤独に熱中することがある。それなのに訪問者がいなくなると空白が残る」。
持田鋼一郎は早大政経学部卒業後、文藝春秋の編集部に入社、その後フリーになるまで勤務。退職後、作家、翻訳家として活躍。小生のHP(幕間のBook Review)にメーヨーの書評を記したのがきっかけでメールしてくださり、何度かのやりとりがあった。
メールに、「メーヨーの娘さんが来日しているので会いませんか?」と誘っていただいたが、迷ったあげく、お断りしたときの重苦しい気分が忘れられない。
あのころの小生は孤独に熱中しなかったが、新たな人間関係に対しても旧来の関係にも後ろ向きだった。人と会うのを避け、空白が残っても自分で埋めた。それはいまも変わらない。
メーヨーは学者を父に持つ家の出身。ソルボンヌ大学卒業。2度の結婚、離婚をへてライター、画家、歌手などの職を転々、ジュラ地方の城主と再婚。しかしそれも破綻した。メーヨー晩年の三部作、「夢の終わり」、「ガンとともに生きる」、「生きてこそ輝く」は作家としての高い評価を受けている。
ソルボンヌ在学中に知り合った白系ロシア人男性と最初の結婚をしたメーヨーは、夫が詩人だったことで、そうした人々の集まる家へ行き、ジャン・コクトー、ロマン・ロランほかとの知己を得る。無名の夫は貧しく、難民用のパスポートを持っていた。
「どうすることもできない一種の狂気によって結婚へと駆り立てられていることを感じていた。他の道はすべて霧に閉ざされているように思えた。私は結婚した日の夜に泣いた」(「生きてこそ輝く」)。
新婚旅行先のサン・トロペで四六時中喧嘩をした。「当時のサン・トロペは小さな港で、周辺は田舎、自然のままだった。黒い服を着た老婆が野原で野牛の番をし、キョウチクトウが両側に繁った埃っぽい、白い道が海に続いていた。
渚にはピンクの貝が散らばっていて、人影がなかった。港では百万長者と貧乏画家という対照的な人種が入り混じって散歩していた。いままさに終わろうとしている古きよきヨーロッパの最後のすばらしい夏だった」(「生きてこそ輝く」)。
メーヨーには正のヨーロッパと負のヨーロッパが同居している。正か負かを抽象的に述べる学者とは異なる具体的な描写の源泉は豊かな経験と感性である。「生きてこそ輝く」を読み、痛いほど伝わってきた。
ゲール・E・メーヨー著「生きてこそ輝く」

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