2026/08/03    本を読む(2)
 
 40代に最も多く読んだのは歌舞伎関連書とクラシック音楽関連書だった。毎月、中座、南座、松竹座、歌舞伎座などのどこかで観劇した。特に片岡孝夫(15代目片岡仁左衛門)、中村勘九郎(18代目中村勘三郎)、坂東八十助(10代目坂東三津五郎)の舞台は必ずみにいった。
 
 歌舞伎関連本でおもしろいと思えたのは、江戸時代末期に書かれた「手前味噌」(三代目中村仲蔵著)、明治時代の出版「團菊以後」(伊原青々園著)。中村仲蔵は脇役で活躍。「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし=切られ与三郎とお富)の蝙蝠安で名をはせた。
伊原青々園(本名・伊原敏郎)は劇評家で松江市出身。坪内逍遙や三木竹二(森鴎外の弟)などと親しく、三木竹二と「歌舞伎」を創刊している。「手前味噌」も「團菊以後」も入手困難だったが、両書ともに平成21年に新装版が青蛙房(せいあぼう)から刊行され購入した。
 
 江戸末、明治の書もおもしろかったけれど、それ以上におもしろかったのは歌舞伎役者の芸談を集めた本。「秀十郎夜話」(千谷道雄著)は芸談ではないのだが、初代中村吉右衛門の弟子・中村秀十郎の苦心談である。文壇に歌舞伎ファンは多い。志賀直哉、三島由紀夫は熱心なファン。
秀十郎夜話の解説で渡辺保は、「歌舞伎の舞台裏は長いあいだ秘境であった。その秘境をはじめて白日のもとにさらしたのが、千谷道雄の秀十郎夜話である」と記す。
 
 芸談で注目したのは、六代目尾上梅幸の「女形の芸談」、七代目坂東三津五郎の「戯場戯語」、同「舞踊藝話」、十三代目片岡仁左衛門の「嵯峨談語」、「仁左衛門楽我記」、尾上松禄の「松禄芸話」、三代目中村鴈治郎(四代目坂田藤十郎)の「鴈治郎芸談」。関容子がまとめた十七代目「中村勘三郎楽屋ばなし」。
 
 十三代目片岡仁左衛門の自宅は嵯峨野にあり、「大沢の池あたりが格別私は好ましい。人気もなく、静かな、そして殊更に手を入れている様子もなく、ごく自然のままのたたずまいが私は嬉しいのだ」(「嵯峨談語」)と記している。
 
 京料理についても語り、仁左衛門のお勧め料亭は、瓢亭、辻留、京大和、ちもと、川上、松乃(うなぎ)などである。芸談ではなくグルメ。金沢の知人が言いそうなことは、「OB会で瓢亭の朝がゆは食べたが、ほかは行ったことがない」。仕事にしがみつき、自主性のない人はそんなものです。
 
 三津五郎は「戯場戯語」に記している。「女房言葉でむらさきは鰯の異名で、醤油ではない」。「むらさきは上品ぶった下等な言葉で‥」。
「世間の人間が芝居の終演のことを、芝居がハネたと言う。これは禁句で、こもっぱり芝居=こもを張った粗末な芝居小屋でおこなわれる下等な芝居=じゃない、江戸の三座は打ち出しと言う。役者がハネてから行きますなんて言うとお里が知れる」。
 
 その時期、ヨーロッパに旅することもあり、歌舞伎予約日(1ヶ月前の午前10時から)が旅行中だと、夏期の英国は時差8時間、大陸は7時間なので、午前2時とか3時に公衆電話で予約。希望日の良い席を確保するにはそうするしかない。部屋の電話を使うと伴侶が目覚める。当時の孝夫、勘九郎は絶大な人気があり、望ましい席はすぐ売り切れた。
 
 大晦日の夜9時からシンフォニーホールでおこなわれるジルベスター・コンサートは前々月の上旬からの予約。ソプラノ歌手で米国出身のメラニー・ホリディは、オペラよりオペレッタ(軽歌劇)に軸足を置いていた。オペレッタがオペラと異なるのは、オペラの結末は悲しく、オペレッタはめでたし、めでたしで終わり、爽快な気分にしてくれるというところ。
 
 メラニー・ホリディの日本での人気は高く、前売りは予約日初日でほぼ完売。売れ残ったとしても最後部付近。1996年10月上旬、プラハから電話予約。ジルベスター・コンサートは1990年から2001年まで行った。
 
 彼女の共演者はポーランドのテノール歌手リシャール・カルチコフスキーだった。一見バットマンみたいな風貌なのだが、声の美しさは見事で、ホテルのエレベーターで鉢合わせしたとき抜群の礼儀正しさ、やさしさに遭遇し、たちまちファンになってしまった。
 
 90年代を通してジルベスター・コンサートは一等席9000円の低料金。常に最前列真ん中に陣取った。ステキな歌声、華やかな振付け。午前零時になるとカラフルな風船が数多く舞い上がり、空間で何個か割れる。
 
 1999年の大晦日、ミレニアム(2000年)を迎えた午前零時、直径2メートルくらいの金色、銀色、赤、青の大きな風船を舞台からメラニー・ホリディとカルチコフスキーが客席に飛ばす。歓声があがり、観客が手で止めようとしても勢いづいたゴム風船はボヨヨン、ヨンと揺れ、最後部席へ転がってしまう。客がツメで引っ掻いたのか、ハンマーで叩いたのか、大風船の割れる音が館内に響き、どよめきと大歓声。
 
 正月にいずみホールでおこなわれるウィーン・フィル・リング・アンサンブル(リーダーはウィーン・フィルのコンサートマスター・ライナー・キュッヒル)によるニューイヤー・コンサートも10年続けて聴きに行った。
 
 あのころ高名なソリスト、指揮者が次々と来日しコンサートを開いていた。黄金時代といっても言い過ぎではない。ヴァイオリン、ピアノ、チェロ、フルート、クラリネットのソリスト、著名な楽団、名だたる指揮者。
オペラも引っ越し公演と呼ばれる、ヨーロッパ有数の歌劇場の専属歌手が日本に来て歌った。地元公演はおおむね冬なので来日公演は春か秋。
 
 料金はそれなりに高かった。プラハ国立歌劇場の引っ越し公演は手頃な料金だったが、それでもプラハの8倍〜10倍(プラハは一等席が96年当時3000円台。三等席なら1000円前後)。
90年代、音楽好きのプラハ市民がオペラを楽しむには適正な料金であると思えた。楽団員や歌手の渡航費、滞在費、主催者の手数料などを鑑みても、日本公演は高い。米国公演がヨーロッパの料金と較べて2〜3割高いだけだから、日本はぼったくり。
 
 ところで読書。高校生のころ小林秀雄の「モオツアルト」を読んで、モーツアルトの出自や作曲した音楽の一部、オペラ「フィガロの結婚」は知っていた。
1990年代になって大阪フェスティバル・ホールで「フィガロの結婚」を観たが、たしたことはなく、小林秀雄の文章のほうが劇的だった。小林の「モオツアルト」は名作ドラマの主人公のごとく生き生きして、時に衝動的である。
 
 モーツアルトの妻コンスタンツェは悪妻だったと評する者もいる。。しかし、モーツアルトはそうした評判を気にしなかった。恋女房だったのである。悪妻と思っている者はモーツアルトの死後、コンスタンツェが果たした役割をきちんと評価しているかどうか疑わしい。
天才音楽家に才女の組合わせは理想、平凡な男から見ると嫉妬の対象。悪妻とみなせば溜飲も下がる。夫の生前さげまんの妻が、死後あげまんになる。そういうストーリーは嫉妬深い人間にも許容されるだろう。
 
 あれは中学生のころだったか、校内放送で「アイネクライネ・ナハトムジーク」をくり返し流す。毎日何度も聴かされると耳障りになる。中学校の音楽教師は二言目にはモーツアルト。「レクイエム」は18世紀の名曲と言っていたが、鎮魂曲は葬式の曲ではないか、アタマおかしいんじゃないのとバカにしていた。
 
 ああそれなのに、モーツアルトの曲はブラームスの次に好きな音楽となる。「モーツアルトの手紙」(吉田秀和訳)、「モーツアルトとの散歩」(アンリ・ゲオン著 高橋英郎訳)を読んで益々モーツアルト贔屓になった。
モーツアルト、ベートーヴェンのピアノ曲を演奏すれば世界一といわれたフリードリヒ・グルダの来日公演(1993)も聴いた。すばらしかった。歓喜の演奏。その後「グルダの真実」(田辺秀樹訳)を読んだ。
 
 ウィーンで生まれ、名門音楽院(現在のウィーン国立音楽大学)出身、ジュネーブ国際音楽コンクールに優勝したエリート。傲慢さを隠そうとしないタイプ。奥方は日本人。グルダは親日家。来日公演でのグルダは人が変わったかのように控えめで低姿勢。あれはきっと奥方からのアドバイスがあった。日本では謙虚、控えめが好まれると。
 
 グルダの真骨頂はモーツアルトのピアノ協奏曲第20番と21番の名盤(CD)。モーツアルトの音楽は急所に届かないと考えていた観念を見事に打ち崩したのが指揮者クラウディオ・アバドとウィーン・フィル、そして何よりもグルダの名演奏である。
特に第21番の第二楽章は、全神経を集中し、いまにもこわれそうなガラス細工の指でピアノを弾いていた。グルダの日常からはとうてい信じがたい哀歓が演奏を支配し、緩やかで豊かなモーツアルトが聴衆を魅了する。
 
 指揮者の評伝でこれはと思えたのはシャルル・ミユンシュの「指揮者という仕事」(福田達夫訳)だった。ミュンシュ指揮の名盤ナンバーワンはベルリオーズの「幻想交響曲」。1967年、パリ管弦楽団のデビュー盤である。
他の幻想交響曲は何だったのかと思える圧倒的な指揮と演奏。第四楽章で神々が登場し、第五楽章は興奮の坩堝。天使と悪魔が交歓するシーンを想像させる。
 
 ミュンシュは言う、「楽員たちが息を詰め、弦の上の数ミリで弓をとめる瞬間、果てしないもののようにあの深い静寂(しじま)が生じる」。またこうも言う、「指揮者は職業ではなく天職であり、時に祭祀職であり、多くの場合病気です。死ぬことによってしか快癒しない病気なのです」。
「管楽器を正確な音で鳴らすには、ホールの温度にまで温めておかねばならない。彼らは競技を行う前に自分の筋肉を温めている運動選手を連想させる」。
 
 ホロヴィッツに関しては「幕間」の「Book Review」2003年3月「ホロヴィッツの夕べ」に記した。奥方ワンダ(トスカニーニの娘)とホロヴィッツのわがままで贅沢な生活が伝わり、世の中一般とかけ離れた浮かれ人、だから逆に引きこまれる。
 
 評伝でおもしろかったのは「評伝 ヴェルディ」第一部&第二部(小畑恒夫訳)。第一部冒頭のヴェルディが育った村はずれの秋。「見捨てられたような、眠気と倦怠がよどんだ雰囲気」。「外は寒く、霧はまるでナイフで切れるかと思えるほど濃い」。
全体の翻訳は巧みと言いがたいけれど、ここをふくめて何カ所かは巧みである。読み進むうちにヴェルディの世界が見えてくる。ヨーロッパの芸術家、文学者、評論家の眼前に広がる風景描写、日本人の名翻訳は次回。

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