2026/05/19    昭和の風景(十八)
 
 昭和43年〜47年(1968−1972)に住んでいた渋谷の学生センターは各部屋に洗面台が備わり、ハンカチ、下着は手洗いで洗った。シャツ、トレーナー、綿パンなどは、自室ドア前のバスケットに入れておけば、女性従業員2人が回収、地下室の業務用洗濯機で洗い、屋上の物干し場に干した。雨天は地下のボイラー室で乾かしていた。
 
 浴場も地下にあり、タイル貼りの浴室は同時に5人くらい入れて、洗い場には銭湯のように一般的な蛇口とシャワーヘッドが付いており、脱衣所も広く、入浴は16時から23時まで。
23時を過ぎると湯船の湯は抜かれたが、シャワーの温水は午前零時まで稼働、それ以降は冷水となるので、23時を過ぎたときは零時までにシャワー。16時に行くと誰もおらず一人風呂。
 
 アイロンかけもしてくれたが、アイロンとアイロン台を借りてシャツのアイロンかけに挑戦した。襟に小さなシワが寄り、貧乏くさい。結局、シャツのアイロンかけは従業員に任せた。
東北地方から来た気のいいミヨちゃんは20代後半、「いつでも言ってください」と声をかけてくれ、「ノーアイロンはだらしなく見える。クリーニングに出すとお小遣いが減る」とも言う。シャツのボタンが外れたときもつけてもらった。
 
 もう一人の従業員は経営者(女性 伊東出身)の関係者で、当時の下宿者(10代後半〜20代前半)と同じ年ごろだった。そのほかに料理担当の女性がいた。年齢不詳。
3階建ての学生センターは合計20部屋ほどで、1階に従業員用2部屋、家族や友人が来訪したときの応接間、各階に2人部屋が1部屋づつあった。地下の食堂は広く、各テーブルに椅子4つ、テーブルは8つ。
 
 一人部屋の家賃は毎月29500円、二人部屋は39500円(一人19750円)。朝晩食事(日曜の夕食はなし)がついて、風呂も毎日入れて、冷暖房完備、門限なし。当時の大卒初任給は5万円。
合格発表の日、「行かなくてもいい。ぜったい合格してる。電報が届く」と言う小生を尻目に父は見に行き、学生センター「ハピテ南平台」のチラシを配る学生から受取り、帰宅後、「ここがいいかもしれない」と言ったのだった。父は小生ほど気が早くなかったけれど、なぜかこのときは電光石火。
 
 京都の国立大学も受験するので、必ずしも東京に住むとはかぎらないが、条件のよいところは早めに手配しようと父が言い、「国立大を受験する学生さんは多いから予約だけでも構いません。3月末までに連絡くだされば」と先方も諒解しているらしい。その後の経緯は省略。
 
 住人のほとんどは関西地方から来たが、久留米、津山(岡山県)、新潟、小樽からの者もいて、最も多かったのが灘高校出身者で東京大学入学、実家は芦屋のお坊ちゃま。次に多かったのは慶応、早稲田。そして青山学院、法政、明治学院がひとりづつ。翌年になって浪人生も数名入居した。
浪人で名前を思い出すのは、三重県の江�ア君、静岡の相原君、遠藤君、鈴木君、出身地は忘れたが藤村君。鈴木君は自動車のスズキの創業者の息子だった。2年先輩の安藤氏(慶応)はインスタントラーメン日清食品代表・安藤百福の長男で、鼻の頭が赤かった。
 
 翌年春、大学に入った藤村君は学生センターを出たが、その年の秋、派手な女を赤のポルシェに乗せてやって来た。車も女もみせびらかしたかったのだろうが、居合わせた者は鼻白んだ。誰だったか思い出せないが、「入学祝いに買ってもらった」と言っていた。私たちは息子だけでなく親もバカにした。
 
 学生センターの麻雀仲間で慶応経済学部の北川の友人に北井という男がいた。北川に言わせると麻雀が強いということだったがたいしたことはなかった。北井の愛車は黒のポルシェ。
真夜中、誘われてポルシェの後部座席に乗り、青山通りを猛スピードでドライブ。後部空間はかなり狭い。エンジン音はけたたましく、乗り心地最悪。カネができてもポルシェは買いたくないと思った。
 
 北川の父親は神戸で貿易会社を経営しており、父子は時々都内で会食していた。1968年秋、北川の誘いを断り切れず料理屋へ連れていかれた。銀座6丁目の「治作」というしゃぶしゃぶの店。神戸牛は美味で、なにより「ごまだれ」が格別の味だった。
二次会は銀座何丁目かおぼえていないが、北川常連のカクテルバー。なんと、そこには名の通った舞台女優がはたらいていた。顔も名前も知っているとわかったとき驚いたのは彼女だった。北川は彼女が舞台女優ということも芸名も知らなかった。
 
 高級バーの雰囲気に飲まれなかったのは、昭和43年1月下旬から3月まで祇園花見小路の元置屋の2階に下宿し、1階にに出入りする芸妓、舞妓と毎夕挨拶を交わし、花街の女性に呼吸を合わせる術を体得していたからだ。
舞台女優はたいして飲んでもいないのに酔ったのか、あろうことか小生に興味を抱いたふうに見えた。瓢箪から駒。バーテンが何か言いに来て、彼女は無視した。20代半ばの熟した色香を発散させる舞台女優の魅力は格別。
 
 北川に促され外に出たら、「やめといたほうがいい、パトロンがいる」と彼は言った。口からでまかせと思う先から、パトロン? まさか、お前の親父じゃないだろうな。やめるも何も、始まってもいないし、学生の分際で、ふつうに知り合って交流するなら年上もわるくないかもしれないけれど、ふつうの出会いでもなく、つりあいもとれないよ。
 
 1968年入居同期ですぐ仲良くなったのは小樽の渡辺(慶応商学部)。身長184センチ、痩せているのに肩幅だけ広かった。どこかで記したように学生センターは朝夕まかない付き、日曜の夕飯だけ出ない。朝食は眠そうな目をした渡辺と共にする機会が多かった。
日曜の夕食は渡辺と渋谷駅近辺で食べる。渡辺と小生はパスタが好きで、駅前のビル内「壁の穴」で具だくさん、大盛りのコスモポリタン(スパゲティ)を食べた。毎週食べても飽きなかった。渡辺が帰省中、ひとりで食べに行ったのかどうか思い出せない。渡辺は小生の帰省中、ひとりでコスモポリタンを食べていた。
 
 食事不要の場合、朝食は前夜までに、夕食は当日午前中までに申し出る。下宿代は食事してもぬいても同じ。盆、正月など下宿人が帰省している場合の食費返却はない。下宿人は帰省しても期間は短く、数日でもどってきた。実家にいるより都内のほうが刺激的だったのだろう。
 
 昭和45年まで夏休み、春休みは旅行に明け暮れた。昭和46年の平日は週に一回デートし、女性と夕飯を食べた。外食に飽きて、女性宅でビーフシチューやハンバーグ、すき焼を作ったこともある。ご両親は女性の父親の勤務先の社宅に住んでおり、女性は妹と二人暮しだった。
 
 日曜は渡辺と渋谷・道玄坂のボーリング場で遊んだり、渋谷の映画街へ行った。昭和47年2月だったか、渡辺と一緒にみた「ダーティ・ハリー」はいまでもおぼえている。サンフランシスコの刑事ハリー・キャラハンはクリント・イーストウッドの当たり役。交流中の女性も洋画好きだったが、女性向きでない洋画を渡辺とみた。渡辺と「風と共に去りぬ」はない。
 
 明治神宮近辺(原宿)を女性と歩いていたら学生センターの浪人生・遠藤君とばったり会った。彼は相原君の姉(青山学院4年生)と一緒だった。遠藤君より3歳年上。かなり親密そうなので驚いた。予備校のかわりに年上の女性とデートかい。後日、「井上さんの彼女、ステキな方ね」と相原君の姉が言っていたらしい。
 
 浪人生は1971年春、全員大学生となったように記憶しているが、明治大学へ入学した鈴木君以外の面々がどの大学へ行ったのか忘れてしまった。大学入学してまもなく鈴木君と相原君のほかは学生センターから引っ越した。どことなく陰気な藤村君をのぞいて彼らは明るく、親近感を漂わせ、好感が持てた。
 
 だらだら書くのはこれくらいにしよう。思い出したときに書かなければ記憶はよみがえらない。半世紀以上前のとりとめのないことは本日、これきり。

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