9   2007年1月松竹座 夜の部
更新日時:
2007/01/27 
 
 坂田藤十郎が京大坂で活躍した延宝から元禄に至る江戸期とこんにちでは、衆民と歌舞伎の関係は変化している。そのころ剣呑と思われたものも現在は退屈とみなされるだろう。しかし、平成の藤十郎と団十郎の初共演というからにはみておかねばなるまい。
 
 昼の部「勧進帳」では団十郎の弁慶、藤十郎の義経。しどころの多い弁慶に較べて義経は、我慢と行儀のよさをハラで演じねばならない。海老蔵襲名の折、松竹座で海老蔵の弁慶、仁左衛門の富樫、藤十郎の義経をみて「2004年7月松竹座」に記した。
 
 「仮名手本忠臣蔵」の九段目は浄瑠璃屈指の難曲である。文楽の紋下(太夫の最高峰)でも九段目を語りたいという人はいない。昨晩秋(11月29日)の「文楽の夕べ」で仁左衛門と対談した竹本住太夫も「いまだにいやです」と言うほどの難しさがあり、歌舞伎ともなれば役者の風格と持ち味に出来不出来が左右される。
 
 討ち入り前に京山科へ上ってきた加古川本蔵の妻・戸無瀬と娘・小浪。若後家になることが明らかな嫁取りを避けるためわざと邪慳にする由良之助内儀・お石。扇雀の小浪は初々しくおとなしくみえさえすればよい役だが、藤十郎の戸無瀬の性根は複雑で、役として難しい。
 
 義母ゆえ情愛の表出が難しいという理由のほかに、お石(秀太郎)との詰め開きに極度の逼迫感がなければならないからだ。ここがうまくいかないと客はだれるし、お石が奥に引っ込んでから意を決し、手水鉢の氷を割るあたりまでの流れが崩れる。
 
 また、お石との比較上、伴侶の禄高は下でも役の格は上ということがあり、だからといってむやみにお石を上まわるのも避けねばならず、現実感と迫力もみせねばならない。が、さすがに藤十郎、うまいものだ。秀太郎も手練れている。
 
 藤十郎と秀太郎は1999年3月、仮名手本忠臣蔵の通し狂言(松竹座)で各々この役をやっている。本蔵も今回と同じ我當。由良之助は仁左衛門。
 
 その我當がどうしたことか、この日だけのことであろうが、思いのほか元気がなかった。99年3月は、仁左衛門とのイキもぴったり合って、予想外のうまさであったのだけれど。今回は団十郎の由良之助。本蔵の愁嘆場における団十郎のハラは十分。この場の由良之助は本蔵に較べるとセリフが少なく、受けに立つ。
 
 団十郎の由良之助には、我當の本蔵の「忠義ならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心、ご推量あれ、由良殿」からの述懐を生かすハラは十分にあるが、お互いの呼吸が合わなかったのか、このセリフをはじめて聞くがごとくのハラは薄かった。はじめて聞いてくれるから述懐のしがいもあるだろうに。
 
 由良之助は受けに立つなどと、言うは易し、おこなう難し。ただ漫然と黙すだけでなく、相手を想い、相手の真情の吐露を慈しみ、相手の不利益には口を閉ざす。それが九段目の由良之助である。総じて九段目は難しい。
 
 夜の部はほかに「毛抜」。他愛のない正月向け狂言なのだが、海老蔵の弾正はセリフ回しに山谷がついた。そして、セリフのない時代物の顔は、以前は面妖なところもあったけれど、いつの間にかそれが取れて錦絵っぽく立派になった。姫が出てすぐの言い回しを急ぎすぎた点以外は元気いっぱい、みさせたように思えた。


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