36   2002年10月国立劇場 通し狂言「霊験亀山鉾」その二
更新日時:
2002/11/08 

 
 こんにち化政期(1804〜30)と呼ばれている時代、元禄文化とはやや趣を異にした文化が花開いたが、それは江戸幕府の終末を予兆するかのような爛熟ぶりで、まさに柿の木の柿が熟して落ちる寸前を思わせる。四世鶴屋南北は、文化元年・河原崎座で初世尾上松助にあてて書いた「天竺徳兵衛韓噺」(てんじくとくべえいこくばなし)が、水中早替りのケレンで見物を瞠目させ、二ヶ月半のロングランという大成功をおさめた。時に南北五十才の夏であった。
 
 それ以降25年にわたって南北は劇界の大立者である五世幸四郎、三世三津五郎、五世半四郎や、新進の三世菊五郎、七世団十郎などにあてはめた作品を120篇余書き上げたのである。南北が四世鶴屋南北を襲名したのは文化八年(1811年)、57歳の時である。「霊験亀山鉾」の初演は1822年、南北68歳、ここへ来ての南北独壇場であり、化政歌舞伎の頂点のひとつをみる思いがする。70歳を過ぎて佐渡へ流され、能を舞うことさえおぼつかなくなってなお、能作りの炎を赤々と燃やし続けた世阿弥、その精神の継承者は能の世界にのみ存在するものではないだろう。
 
 霊験亀山鉾のあらすじは以下の通りである。
 
 藤田水右衛門(仁左衛門)が甲州石和で殺した石井兵衛の弟兵助(弥十郎)に出会い、正式の仇討となったが、水右衛門が謀って毒を飲ませて返り討にする。兵助の弟源之丞(染五郎)は香具屋弥兵衛と名をかえ、駿州・弥勒町の芸者お妻と情を交わし水右衛門の現れるのを待っている。一方、お妻に惚れた隠亡の八郎兵衛(仁左衛門)が頻繁に通ってくるが、お妻は八郎兵衛が水右衛門によく似ているので本人と思いこむ。
 
 水右衛門らは源之丞と従者の奴・金六(愛之助)を安倍川におびき出して返り討にする。源之丞の死骸を火葬にする焼き場で、お妻が来て嘆き悲しんでいるところへ八郎兵衛が現れてお妻を口説く。お妻は渾身の力を振りしぼって八郎兵衛を斬るが、棺桶にしのんでいた水右衛門に殺されてしまう。以下の筋書は見てのおたのしみである。この仇討はれっきとした史実で、ちょうど江戸城・松の廊下で浅野氏の刃傷のあった頃に起こった事件である。大石内蔵助は1年余で仇討を果たしたが、亀山の仇討は29年もの歳月を要した。当時としては異様な長さである。
 
 
 さて、評判記本論に戻るといたしましょう。「焼場の場」で舞台中央に水右衛門の入った棺桶をポツンと置くのもどうかと思う。舞台空間を生かしきれない大道具のチョンボと云おうか手抜きと云うか、当時南北が「棺桶作者」と呼ばれていたという史実をふまえていたとしても、棺桶がバラバラになって、中から水右衛門が出てくるという仕掛けが見せ場のひとつであったとしても、弓的ではないのだから何とかしてもらいたい。南北が棺桶に着目したのは、まさにそれが生と死を分かつ異界の箱であり、あの世へと旅立つための死者の輿(こし)であったからである。
 
 水右衛門がお妻にとどめをさす時、殺した人間の数を指折り数えるくだりは凄惨そのもの、仁左衛門の指の一本一本、表情の細部にこの人の役者としての真価がいかんなく発揮される。私はかなり以前から殺し場でのとどめをさす時の名優の表情に、ある昆虫がその瞬間みせる顔を連想していた。その昆虫は身の丈8a(大きいのは12a)ほどで、交尾の直後メスがオスを食う。食われたオスはメスの腹に宿る子の栄養となるのであるが、オスを食う時のメスの目がなんともいえない目をしていて、恍惚と云うかいやらしいと云うか、一種名状しがたい目なのだ。とどめをさす時、ああいう顔のできる役者は仁左衛門のほかに猿之助、菊五郎、勘九郎である。
 
 四幕目の後半、虚無僧姿(水右衛門)での花道からの出、仁左衛門の虚無僧は絵になる。花道に咲いた花、仮名手本の九段目「山科閑居の場」での加古川本蔵も仁左衛門が一番、この人の虚無僧姿の立居振舞は後世の手本である。ハラで演じているから絵になるのだ。大詰は仁左衛門の独壇場、歌舞伎の殺陣(たて)にみる様式美にある種のリアルさが加味されて絶品。今なら雷蔵の眠狂四郎にも肩を並べる殺陣をみせることができよう。段四郎の大岸頼母は舞台を締める。段四郎という役者は役どころの如何にかかわらず、芝居を見事に引き締める。
 
 片岡仁左衛門は初代(1656〜1715)から敵役を売り物にしてきた家柄である。初代は主に京、大坂で活躍、眼光すさまじく、敵役の随一といわれた役者であった。二代目と四代目は実悪を本領とし、七代目はいわゆる兼ねる役者、八代目は容姿にすぐれ、色立役をはじめとし敵役なども勤めた。現仁左衛門の祖父十一代目は初代鴈治郎に拮抗する名優で、その芸域はまことに広かった。
 
 いま仁左衛門が南北の「霊験亀山鉾」の藤田水右衛門ほか一人三役を演じたのは、歌舞伎の過去を辿り、さらに将来を占う意味においてたいへん興味深い。化政期は江戸文化の爛熟期であると同時に、それまでにはなかった文化が花開き、一般にいきわたった時代でもある。その花は悪の華である。悪の華は満開の時より散る時のほうが美しい。しかし、その美しさは妖しさであり、濃密なエロティシズムを伴う。それは生よりもむしろ死を予感させる。柿が木から落ちる寸前の熟し方なのだ。
 
 仁左衛門の悪役ぶりはすでに定評のあるところだが、この時期にさらにあくどい水右衛門のような役を引き受けたについては、仁左衛門自身に深い読みがあったと思われる。片岡家の江戸時代からのありよう、五世幸四郎以来180年ぶりの一人三役、現代という殺伐とした社会状況、あくどいのは過去ではなく今であり、そうであるなら「霊験亀山鉾」は今の時代にも理解を得るであろう、このあくどさは過去のものではないのである。仁左衛門は南北の世界と五世幸四郎の精神を体得した。そしてそれを舞台いっぱいに表現したのである、歌舞伎の未来のために。
 
 
                              (完)


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