35   2003年1月松竹座 昼の部「二人夕霧」
更新日時:
2003/01/09 
 
 1月の松竹座・昼の部は、「二人夕霧」を除いてみるべきものがない。二代目魁春襲名披露というふれこみではあるが、関西ではすでに昨年5月の南座で襲名披露を果たしており、その時は芝翫、鴈治郎、吉右衛門、梅玉、玉三郎、福助、秀太郎、又五郎、橋之助、弥十郎なども口上に列席していて華やかな雰囲気であったが、今回の口上はどういうわけか鴈治郎、仁左衛門、我当、秀太郎、梅玉だけという、何とも淋しい口上であった。 
 
 幕が開いた瞬間、舞台には魁春を入れても6人しかいないのだから淋しいのは如何ともしがたく、正月というのにどこからか薄ら寒い風が通り抜けていくようなものがなしささえ漂っていた。役者がそれを察知するのは至極当然というべきで、秀太郎、仁左衛門は何とか座を盛り上げようとして、どうにかその場の笑いは誘えたが、口上が終わってみればやはり一抹の寂寞感が尾を引いている。
 
 特に仁左衛門は、「昼の部だけでなく夜の部もお友だちをお誘いの上お越し下さい。お誘いされるお友だちの数が多ければ多いほど福を呼びましょうから‥いや、そんなことはございませんでしょうが(笑)‥」などと言って、観客の笑いをさそっていた。そういう言い方には仁左衛門独特の可笑しさがあって、この人は他の役者の襲名のさいの口上は無論、自分の襲名披露の口上でもそうした事をいう。それが嫌味にならないのは人柄と人徳である。
 
 さて、二人夕霧である。この狂言は「廓文章」の「吉田屋」を下書きにした作品で、遊女・夕霧に入れあげて深い馴染みを重ね、それが原因(もと)で勘当された藤屋伊左衛門と、ふたりの夕霧との恋の鞘当てが話の題材という他愛のない演目であるが、傾城買(けいせいがい)指南所を生業とする伊左衛門の、つっころばし風の遊びなれた立ち振る舞いが京、大坂、はたまた江戸庶民に受けたのである。遊郭へ行く人、行けない人双方に‥。
 
 いまの夕霧(魁春)が花道に引っ込む時の伊左衛門(仁左衛門)の表情、いとしい女を見送る男のたっぷりとした思い入れが秀逸。花道の夕霧はそっちのけで、舞台の伊左衛門にうっとりするのはどうかと思うが、観客の思いは舞台にあった。魁春も、二枚目のやさ男に心から惚れぬいた遊女を好演している。そういう女は、遊女であれなにであれ、可愛くいじらしい素振りをみせるものなのだ。恋に憑かれた女はすべからくそうありたいものである。
 
 吉田屋女房おさき(秀太郎)はこの人の手の内、くだけた世話のこころを巧みに表現する。その柔らかさ、はんなりとした風情は、おそらく今の花街にも望みがたいように思う。歌舞伎の世界ならではであり、秀太郎ならではの世界なのである。伊左衛門とおさきの三味線の競演(実際は義太夫数名が弾くが)で、「あの頃はよかったなァ」と伊左衛門が言い、「ようござんしたなァ」とこたえるおさき。この昔語りの場面には思わず泣けた。ふたりのうまさである。
 
 三味線を弾く伊左衛門の左手の動き、それを見ているだけで、えもいわれぬ何かが伝わってくるのだ。義太夫の語りで、死んだ(とされる)先代の夕霧を偲ぶ伊左衛門の風情も上々吉。〜二つ枕の契りが憎や〜のところから、義太夫語りにではなく、仁左衛門演じる伊左衛門の役者ぶりをとくと堪能させてもらった。
 
 しかし、ここはむしろ義太夫よりも常磐津にしたほうが良いように思える。乱暴な話だが、だれか常磐津用に編曲してはくれまいか。一巴太夫の色気あふれた声が流れてくれば、もっと情感豊かな場となるだろうに‥。死んだはずの先代夕霧(鴈治郎)の登場後、舞台はいっそう華やか、やはり鴈治郎は女形である。この人のこわいほどの若さと色気の秘訣は、なに、若い女の生き血をすすっていたからであった。 


次頁 目次 前頁