3   2012年5月松竹座 夜の部「絵本太功記」ほか
更新日時:
2012/05/24 
 
 歌舞伎座が建て直し中ということで「團菊祭」の舞台を松竹座に移した。絵本太功記大詰「尼ヶ崎閑居の場」一幕は武智光秀一家の家庭内悲劇である。そこには尼となった光秀の母皐月が閑居している。仮名手本六段目も家庭内悲劇ということで共通しているが、一方は主君に背いて謀反を起こすことに起因し、他方は君臣の情が裏目にでることに起因する。
 
 菊之助は一昨年12月「日生劇場」の玉手御前で義太夫狂言を学んだせいか、品とコク、立ち居振る舞いとせりふまわし、いずれも過不足なく、自らの立ち位置も心得た十次郎である。石段の振り向きも決まって上々。だが問題がないわけではない、緊張の糸が切れたということもないだろうに、花道の引っ込みは今生の別れというハラが薄く興ざめ。うぶでやさしい十次郎もここは違う。十次郎の婚約者・初菊の梅枝は「赤姫」成長途上、かわいさ余ってハラ不足、死を覚悟した十次郎との乖離が目立つ。婚約者亡き後、別の男が現れるかもしれないことを予感させる姫である。
 
 皐月の東蔵がうまい。これが本役と思わせるに十分なうまさだ。時代物で立派で申し分のないほど整ったすがたをみせてくれる女形はいまや藤十郎一人となった感のあるなか、東蔵の面目躍如。ニンもできている上に芝居も手堅く、きょう一番の出来。そのわけはいうまでもなく、この芝居を熟知していることと、東蔵の胸の裡で芝居が練り込まれているからだ。後半、息子光秀に意見する場面は、母子の情をみせながらも天が地を見定め人の道を説くがごとしで秀逸。
操の時蔵であるが、義太夫のハラがやや薄味。丸本歌舞伎の格という点で藤十郎に譲るのはしかたないとして、面長な顔の浮世絵的美貌は時蔵のものだけに惜しい気がする。初菊とともに十次郎を見送った後、初菊の手をとり十次郎の去った方向を目で追うようすに母親らしい思い入れがあった。
 
 光秀の團十郎はというと、どうしたのかというほかないような出来。見た目の風格、大きさはよくても動きがよくない。「ひっそぎ竹」の竹を引き抜いて小刀で小枝を削ぐようすは動作が緩慢にみえて義太夫の語りと糸に乗ってこない。この日にかぎって体調が芳しくないのかと心配。間違って母皐月を刺して「ただ茫然たる」から若干持ち直すかと思えば、驚くしぐさが大仰すぎるし間もよくない。
光秀は山崎合戦後、近江坂本へ落ちのびていく途上、土民に竹槍で刺し貫かれ落命したというが、そうした史実あるいは逸話を巧みに取り入れていることを思えば、もうすこしリアルな「ひっそぎ竹」をやるほうが舞台は締まる。この竹槍で菊五郎の真柴久吉を突き刺す心ゆえなおさら。團十郎ならではの豪胆さ不足が惜しまれる。
 
 前半に較べ後半の十次郎に工夫が欠ける。戦いに敗れてという若武者のハラはみせるが、動きが多く変化も伴うため、形と心のバランスを保つ工夫の要るところ。芝居が好きで稽古熱心な菊之助、次回の後半に期待したい。久吉の菊五郎はガラ、ニンともに本役、これといった仕どころはないがきちんとやっている。海老蔵の正清はおどろおどろしいだけで義太夫狂言の心持ちがない。若き日の仁左衛門のごとく義太夫の研鑽に励んでもらいたい。
 
 夜の部はほかに海老蔵と松緑ほかの「高坏」、三津五郎と時蔵ほかの「ゆうれい貸屋」。ゆうれい貸屋では人情味あふれるゆうれいを市蔵が大健闘、ゆうれいが人間に人の道を諭すところに妙味があり、それをムリなく自然にやっている。客席が静まりかえるさまに市蔵、役者冥利に尽きると思ったろう。
時蔵のゆうれいは機知に富み、桶屋の弥六(三津五郎)を手玉にとるが、どんでん返しで本性をあらわにする。三津五郎の弥六は手の内。団蔵、権十郎、吉弥はひととおり。ほかに秀調、梅枝など。原作山本周五郎の新作ものである。面白味倍増の菊五郎の弥六で再演されるかもしれない。


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