25   仁左衛門の心技体(三)
更新日時:
2003/09/14 
 
 大病を患ったあとの孝夫はそれまでの孝夫とは違ってみえた。生きることへの慈しみの心が以前にもましてじんわりにじみ出るようになったのである。
歌舞伎に「ジワがくる」という言い方のあることは小生も承知している。舞台上の役者の熱演、思い入れが客席につたわり、見物がどよめいたりしびれたりするさまをそう呼ぶのだが、孝夫の場合はそういう通り一遍のものとは明らかに一線を画していた。
 
 平成九年七月松竹座「関西歌舞伎を愛する会 第六回」の「新口村」で孝夫は亀屋忠兵衛と忠兵衛の父・孫右衛門の二役を演じた。封印切の忠兵衛は孝夫のニンではない、封印切の忠兵衛はいうまでもなく鴈治郎が図抜けているのだが、新口村の忠兵衛はどんぴしゃ孝夫のニンで、“色男、金と力は無かりけり”という落人の風情を舞台いっぱいに漂わせる。
 
 鴈治郎は小太り気味の体躯をちいさくみせる。鴈治郎の芸の力である。伊勢音頭のお紺、曽根崎心中のお初などの女形はいうに及ばず、忠兵衛や紙屋治兵衛で身体を実際より華奢にみせる芸は、鴈治郎ならではの魔術というほかない。その点、孝夫の痩身は落人そのものの体躯といってよく、すらりとした姿からかぐわしい匂いがこぼれ落ちる。
 
 深いなじみを重ねた女ならずとも一度は手に手を取って‥落人の相手をつとめたいと願ってしまう、それが色男たるものの本分であろう。駈け落ちの主導権をにぎるのは男ではない、男は女より控えめであるほうが望ましい。匂い立つ官能美は秘してこそあらわになる。女性を酔わせ、高揚感や解放感をもたらす役者、孝夫の真骨頂である。
 
 新口村に住む孫右衛門にしては孝夫はきれいすぎるといえば身も蓋もなく、ここは田舎にいてなお美しい老父ということで、見せ場は梅川に対する接し方であり、息子の嫁同然の扱い方である。あざとい言い方をすれば、舅の思いやりの極致とでもいうか、梅川を、それと知って知らぬ顔の半兵衛を決めこむ素振りが慈愛にみちて美しいのだ。知らぬふりをしても、慈しみの心があれば相手につたわり、見物にもつたわるのである。
 
 「新口村」は夜の部で、そのあとにまだ「蝶の道行」と「越後獅子」の踊り二種があったのだが、蝶の道行だけみて松竹座を出た。正面玄関を出てすぐ左が御堂筋で、松竹座楽屋口への路地が御堂筋の歩道と直角に交差している。
その歩道を通りかかったところ、路地から孝夫が歩いてきて、ほんの間近で私たちはぶつかるのを避けるように立ち止まった。つれあいはアァっと声をあげそうになったのを、手で口をふさいで孝夫をみたが、その驚いた表情と動作が滑稽だったのか、孝夫は満面の笑みを浮かべてつれあいをみやった。なんともいえずやさしい顔だった。
 
 群青の麻のジャケット、ライトブルーの麻のスタンドカラー・シャツ、夏素材ウールのアイボリーのスラックスを着用していたが、孝夫は衣服の素材同様自然体であった。孝夫は束の間そこに立っていたが、私たちが軽く会釈をしたのを合図にまたにっこりとほほえんだ。あのときの柔和で慈しみにみちた顔はいまも忘れがたい。御堂筋の側道で待っていた紺色のドイツ車に乗って孝夫は去っていった。平成九年七月十四日夜のことである。
 
 孝夫を風姿と風情の人と評したのは上村以和於であったか、孝夫の身体は優美な哀愁という衣につつまれており‥、いや、衣がすなわち孝夫の身体そのものといったのか、風姿も風情もきわめて非論理的なイメージにすぎないけれど、歌舞伎役者の身体はニンやガラ、花にも深くかかわっていて、それゆえに孝夫の存在自体が歌舞伎的であると述べていたように思う。
 
 まだ若かった頃の孝夫を玉三郎の養父・十四世守田勘弥は、「人になつかしい気持をおこさせる役者」と洩らしたという。ここでいうなつかしさは二通りの意味を持つ。私たちは遠く過ぎ去ったものをなつかしいと思うとともに、はじめて見たものをもなつかしいと感じる。
なつかしさの感情は、私たちの心の深奥部から発生し、すぐれて柔和でやさしい何かに同調するヴァイオリンの弦の一本なのだ。はげしさや歓びの弦から幾分か距離をおいた、哀調と慈しみの弦なのである。そして、なつかしさは激情や喜悦と共鳴することはない。
 
 同年七月松竹座昼の部で孝夫は「土蜘」をやった。河竹黙阿弥が五代目菊五郎に書いた能仕立ての狂言で、音羽屋・新古典劇十種のひとつ。近年では名古屋・御園座でいまの菊五郎がやったのをみた。そのときの土蜘は、前シテの僧・智籌といい後シテの土蜘の精といい迫力満点で、さすが家の芸と賞讃に値するできであった。
 
 特筆すべきは土蜘の精に化けた菊五郎のクモの巣糸を投げるときの素早さと間。いま出るか、いま出るかと待っているときはほとんど出さず、実にうまい間で巣糸を次から次へと投げるワザ、イキのよさ。凄味と素早さとは両立しにくいが、菊五郎は見事に両立させた。巣糸を投げる回数の多さも見応え十分。
五代目は土蜘創演にあたり能の金剛唯一より教えを受け、かつて金剛右京が工夫した「千筋の伝」というクモの巣糸の投げ方の秘伝を伝授されたという。
 
 無論、菊五郎の芸はそれだけにとどまらない。智籌は数珠を横に持ち、口の両側にそれをひろげて、口の裂けた心で見得をするのだが、ここでの凄味も上々で、また、源頼光が智籌に斬りかかったとき、巣糸を一回だけ投げ、袖をかつぎながらの花道への引っ込むみもツボにはまっていた。さらに前シテの舞いは菊五郎の本分、メリハリの利いた踊りはこの人ならでは。
 
 菊五郎の得意とする「土蜘」を孝夫がどうこなすか、はたして結果は吉と出るか、凶と出るか、興味の大半はそこにあった。
 
 女との逢瀬で朝露にぬれた源頼光(藤十郎)は風邪をひいている。そこへ薬を届けにきた侍女・胡蝶(時蔵)が頼光の所望によりその名高雄の山紅葉≠ニ都に近い紅葉の名所を長唄の語りに合わせて踊る。このあとの間合いは智籌の出を見物に秘すために存在する。
 
 見物は舞台正面をみている。私は智籌の出を知っているから、そろそろ出てくるだろうと花道の揚幕を意識していた。ふつうは揚幕を開けるときチャリンの音があるが、智籌は妖怪、土蜘ゆえチャリンは鳴らさない。はじめてみる人は、いつの間にか花道に立っている智籌に気づいてドキッとするという趣向である。
 
 揚幕から花道へ出た智籌の気配を感じたとき、私は寒さで身のすくむ思いであった。とにかく背筋がゾクゾク寒い。そうか、これこそが智籌の妖気、孝夫の壮絶な思い入れなのか、土蜘の精気が孝夫に憑いたのか。あれはどうみても歩いていたのではない、花道をはっていた。恐ろしいものを見て子供は泣き出すというが、あの妖気はそんな生やさしいものではない、泣く子も黙る怖さなのだ。
 
  ところで、歌舞伎解説書には智籌に化けた土蜘が源頼光を狙う理由についての説明がない。そこのところが分からないと、智籌がなぜ頼光に恨みを抱いているのかが分からず、孝夫の思い入れの意味がみえてこない。「能・狂言事典」(平凡社)には『土蜘とは、大和朝廷に服属しない未開の土着民の意で、「記紀」や「風土記」での蔑称。この古代的題材と、中世の頼光武勇伝説とが結びついて生まれた能である。』と記されている。
 
 源頼光によって征伐され、滅ぼされた地方の豪族の怨念が土蜘というかたちで表現され、その怨念を孝夫が僧・智籌で体現しているのである。孝夫には虐げられた豪族の魂が入っている、そういうハラ‥心の在りよう‥で花道から出てきたのである。私が寒気をおぼえたのは孝夫の思い入れの強さゆえなのだ。これを至芸といわずして何を至芸といおう。
 
 花道七三で「いかに頼光」と声をかけた智籌は、頼光の求めで諸国修行の物語を語る。
「身は雲水のさだめなく 樹下石上(じゅかせきしょう)に墨染めの 衣露けき旅の空‥(中略)‥塵の浮世をのがれては〜道なき山に分け登り 風に吹かれ 雨に打たれ 難行苦行の功を積みて〜」の長唄のくだりが耳に響いて心地よい。
 
 「刺高(いらたか)の数珠携えて」のところで智籌は頼光をキっとにらみ、「姿は蜘蛛(ちちゅう)のごとくにて」のくだりで数珠を横に持ち、口にあて(畜生口)凄味をきかせる見得をし、頼光にクモの巣糸を投げつける。ここは大きな見せ場。
 
 智籌「ちちゅう」はすなわち蜘蛛「ちちゅう」、名は体をあらわしているのである。
 
                          (未完)


次頁 目次 前頁