2   勘三郎の死
更新日時:
2012/12/06 
 
 思えば勘三郎二代はわがままで気むずかしかった。先代勘三郎の最晩年、昭和62年(1987)7月7日、祇園祭の前、文の助茶屋本店(八坂上町)で床几に座っているところに出くわした。時刻は午後5時をすこし回っていたが、7月半ばということもあって日差しは弱くなかった。勘三郎は白の上下に白の帽子。門をくぐった途端、白の帽子と白の上下服が目に入った。暑いのに帽子と思ったら勘三郎だった。白玉あんみつを食していた。気づかれるのもイヤ、気づかれないのもイヤ、気づかぬふりしてそっとしておいてくれという風情だった。
 
 そしてそれから1時間後、文の助茶屋の東300mほどに位置する料亭「京大和」の高台の床几に坐す勘三郎に出くわした。むこうもまたかいと思ったのだろう、面識はなかったが挨拶したら、「どなたはんどしたか」と京弁で牽制された。こころなしか勘三郎の目に険があった。横顔に【あぁ、また見られてしまった】と書いてあった。高台からみる八坂の塔と町の風景は格別である。暮れなずむ夏の陽が白の上下を橙色に染めていた。どこかで祇園祭のお囃子の稽古をしているのであろう、コンチキチンの音がきこえてきた。
 
 昭和63年春に死去した先代の麻雀は独特で、点棒が残り少なくなると付き人に補充させた。半荘(ハンチャン)終わって点数を数えても収支は合わない。そのあたりのことをどうしたのか、森光子、南田洋子、長門裕之など麻雀仲間のほとんどは天上の人になっているので知るよしもないが、同じ卓を囲んだ松山政路に聞いた話である。負けず嫌い、傍若無人といえばそれまでとして、逸話を残す人はそうしたものだ。
 
 二代にわたって自分を貫き通すのは周囲の好意と協力なくしては成り立たない。戦後まもなく岳父・六代目(菊五郎)、年の離れた長兄・初代吉右衛門が亡くなって以降、恐いものがいなくなったと述べている。玉三郎の養父・十四世守田勘弥(勘三郎と同年)とは大の仲良し、十一世市川團十郎(同年)とは犬猿の仲。歌舞伎座の最上席楽屋を團十郎と奪い合ったという話もある。結局、双頭の鷲を遜色なくするため松竹は楽屋を改装したという。火花を散らされてはほかの役者が迷惑する。
 
 当代は進取気鋭の精神にとみ、仲間の輪を次々に広げ、歌舞伎に新手法を取り入れ、平成中村座を立ち上げるなど自主公演を盛んにおこなった。稽古場や中村座の楽屋で当代勘三郎に怒鳴られなかったのは、勘三郎に兄貴と呼ばれていた仁左衛門くらいではないだろうか。こと歌舞伎となると勘三郎には曲線は存在せず、一直線にキレやすかった。しかしそこが人間的ともいえ、橋之助にしても扇雀にしても勘三郎の理解者であり、ある意味崇拝者でもあった。
 
 当代は先代ほどには多くの役をこなしていないが、やや不得手であった義太夫狂言にも、出来不出来の如何は別として果敢に取り組んだ。勘九郎時代に中座や南座、歌舞伎座でみた狂言にみるべきものが多く、なかでも「髪結新三」(下の画像)と「鏡獅子」は秀逸、断トツ。コミカルな演しものうまさは周知のことで、猿之助、團十郎、玉三郎との「釣女」の太郎冠者、「高坏」の次郎冠者、三津五郎との「らくだ」の久六、沢村藤十郎との「文七元結」の長兵衛などは傑作。
 
 三世実川延若に教わった「怪談乳房榎」の早替わりも出色。変わったところでは「闇梅百物語」も楽しめた。ほかにも勘三郎ならではの役はあるが、最後にみたのは2005年7月松竹座「十八代目中村勘三郎襲名披露・沼津」の平作。その後、勘三郎は平成中村座やコクーン歌舞伎ほかに心血を注ぎ、常設劇場の出演回数は激減した。串田和美、野田秀樹の新演出、大道具の選び方が歌舞伎にそぐわないと思う小生の足も遠のいた。
 
 大道具を減らしたのはコスト削減という意味合いもあったのだろうか、それにしても席料に還元されなかったのは残念というほかない。家屋や山河、樹木が風景をかたちづくり季節感をあらわす。それでなければ夜のとばりは降りず夜も明けない。歌舞伎は総合芸術である。鳴り物、大道具、照明といったものがそろってこそ客の目を奪う。大道具なしに「ほんまにええ天気やなあ」と言って天井に一面の青空が広がるのは役者の芸の力であり、それができるのは仁左衛門ただいちにん。勘三郎はそこに手の届くまでほんのわずかなところにきていた。
 
 勘三郎の死を悼んだ人のなかに数多の女性もいただろう。そのなかにあって宮沢りえは泣かなかったかもしれない。が、牧瀬里穂は泣いたはずである。太地喜和子は「早すぎるよ」と追い返したかったろう。勘三郎の色気はそういうところからきている。冬の寒い夜、布団にもぐってコタツがわりに柔肌で暖をとる。あのときの感触、たまらないよと勘三郎は言っていた。
役で強烈に残っているのは「夏祭浪花鑑」のお辰である。気性は激しいが、セクシーできっぷのいい女。亭主(一寸徳兵衛)が自分を気に入っているのは「ここでござんすよ」と手でポンと胸をたたく。この場は昔から、気に入っているのは秘所というハラがなければならないとの口伝がある。お辰は勘三郎のタイプであろう。自らの好みを演じるのはやりにくい部分も多いけれど、気むずかしさを備えているがゆえにうまくこなせるということもある。
 
 勘三郎が死んで仁左衛門と團十郎はさぞ身につまされているのではないか。死線をさまよう大病、あるいは、役者を断念せざるをえないような重病を患った者としての体験は重い。しかし彼らは死地を脱した。脱しえなかった勘三郎に手向ける花は、幾多の讃辞はあたりまえとしてむしろ内向きの話かもしれない。役者の色気は花そのもの、わがままであることも名優に花を添える。由良之助のような辛抱立役は不得手だった勘三郎の生き方は発散型の歌舞伎そのものだった。歌舞伎と一体化していた。発散しなければ歌舞伎になじみの薄い若者のこころをつかむことも、彼らの目を歌舞伎に向けることもかなわなかったろう。
 
 2009年2月12日夜の松竹座前、勘三郎は厚いオーバーコートを肩にひっかけ風を切って歩いていた。隣に飛び跳ねるような歩調で楽しそうな夫人がいた。勘太郎(現勘九郎)、七之助が松竹座に出ていて、夜の部で勘太郎が「実盛物語」の実盛と「蜘蛛絲梓弦」(くものいとあずさのゆみなり)の源頼光をやっていたからだ。実盛はまだまだであったが、頼光は行儀もよく、品格もあり凛然たる頼光だった。おそらく勘三郎も例の調子で、実盛はオレには全然およばないが、頼光はまずまずかとつぶやいたはずだ。それが生身の勘三郎を見た最後である。
 



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