17   2005年1月松竹座 上方歌舞伎の残映「男の花道」
更新日時:
2005/01/13 
 
 今年の松竹座・正月公演はいつになくさびしい。鴈治郎、秀太郎両人の上方歌舞伎重鎮のほかに例年みられるようなゲストの参加がないからである。かつて、といってもほんの二、三年前までは仁左衛門、団十郎、段四郎などが来演した。
2001年正月は仁左衛門、富十郎が昼の部「金閣寺」の鴈治郎(雪姫)に付き合い、夜の部の「勧進帳」で仁左衛門の弁慶、富十郎の富樫、鴈治郎の義経といった、まさに役者がそろった豪華な顔ぶれ。
 
 2002年正月は団十郎・海老蔵(当時は新之助)親子が来演、海老蔵がイキのいい「外郎売」を演り、団十郎(孫右衛門)が「河庄」で鴈治郎(紙屋治兵衛)に付き合い、2003年正月は仁左衛門も来て、「義賢最期」の木曽義賢を演った。役者がそろわないと芝居が盛り上がらないのは多くの贔屓の知るところで、鴈治郎とて例外ではない。主役はおおむね共演者の好演、熱演で生き生きと精彩をはなつ。
 
 1998年正月、団十郎の「毛抜」に腰元・巻絹でつきあった鴈治郎のよかったこと、生き生きを通り越してウキウキしていた。また、二代目延若が得意とした「雁のたより」の髪結・三二五郎七は、段四郎、福助、権十郎(先代)を擁して出色のできであったし、このときは「阿古屋」と「鷺娘」に玉三郎が出ていた。
「阿古屋」では玉三郎のあでやかさにくわえて、段四郎(岩永左衛門)の人形振り、団十郎(重忠)の薄目(阿古屋が琴、三味線、胡弓を演奏中に薄目で一階席前列を見る)が滑稽味を生み、正月らしいはなやかさが舞台いっぱいにあふれていた。
 
 今回の松竹座夜の部「廓文章」の配役は、扇雀の伊左衛門、孝太郎の夕霧、弥十郎の喜左衛門、竹三郎のおわさであるが、1999年正月の松竹座では、鴈治郎の伊左衛門、玉三郎の夕霧以下、段四郎、秀太郎という垂涎ものの配役であった。
 
 今回がいかにみごたえのない配役か陣容をみればわかろうというもので、これはもう貧弱というほかことばがない。貧すれば鈍する。役者がいかに意気込んで舞台にあがっても、役には役のいのちがあり、役者のガラ、ニンがあって、いまの扇雀、孝太郎ではとうてい望めぬガラ、ニンなのである。
 
 さて、このたびの鴈治郎、「男の花道」の加賀屋歌右衛門役はどうかといえば、上方歌舞伎、とりわけ和事で他の追随を許さぬ名優鴈治郎にしてはめずらしいばかりの芝居である。どうめずらしいかというと、とにかくよく泣く。たしかに鴈治郎は狂言によってはしばしば鼻をすする。先代萩「御殿(飯炊き)」の政岡役や、義経千本桜「すし屋」の権太役でも何度も鼻をすする。
 
 しかしながら鼻をすするように泣いても、鴈治郎はたやすく崩れないだけのハラが基本的に存在するから、泣きが入ってもそれほど私たちは気にならない。ところが今回だけはいささか事情がことなる。泣きすぎて芝居がクサいのである。
 
 加賀屋歌右衛門は重い眼病をわずらい失明の危険もある。それを、上方から江戸へ下る道中、小田原宿で蘭方医・土生玄碩(はぶげんせき=我當)と出会い、玄碩の手術によって救われる。行灯のあかりがよく見えない、部屋から富士山が見えないという場面に、実際にではなくハラで泣くところはこの人らしい見せ場なのだが、そのあとがよくない。
やたらと泣き、そのつど鼻をすするから見るほうは白けてくる。『泣くならハラで泣け。役者が泣いてしまってはお客が泣けない。役者のかわりにお客が泣くのである』といったのはだれであったか、感きわまるのは役者ではなく客であってみれば、舞台で役者が泣きすぎると芝居はじゃらけてしまう。
 
 その傾向は第二幕においてもつづき、劇中劇の江戸・中村座で客にゆるしを乞う(玄碩との約束を守るため芝居を中断する)場でも、鴈治郎はリアルに走りすぎてハラで泣かない。だから客は泣けず、玄碩との四年ぶりの出会いも感動を呼ばない。
さすがの秀太郎(女将お時)も鼻白んでいたのではあるまいか。大詰で、弥十郎(田辺嘉右衛門)の間のよいせりふが利いて場が盛り上がったのはさいわいである。ときおり力みすぎるきらいのある我當も、今回は新劇風で肩の力がぬけたのか、自然体でいい。
 
 鴈治郎を継ぐ役者は鴈治郎しかいないと思えるほどの名優が、いったいどうしたものであったか、今年十二月、南座顔見世を皮切りに四代目坂田藤十郎を襲名する鴈治郎であるが、正月公演の幸先は決してよいとはいえまい。
近年徐々にうしなわれつつある上方歌舞伎・和事の軽妙でまろやかな味わいを、この先だれが継承してゆくのだろう。翫雀が四代目鴈治郎になったあかつきに見事継承してくれるのだろうか。あるいは、鴈治郎、仁左衛門、秀太郎で途絶えるのだろうか。
 
 和事の本分は、かなしさのなかのおかしさ、笑いの裏の涙である。巷間でよくいうではないか、顔でわらって心でなくと。それをかたちであらわさずハラで表現することのむずかしさ。型を継承できてもハラ、心を継承するのは容易ではない、しかしそれがゆえに歌舞伎は奥がふかくおもしろいのだ。鴈治郎を筆頭にした上方歌舞伎の残映が落日になる日の来ぬことを願ってやまない。
 
  ◆「男の花道」は長谷川一夫、大川橋蔵も歌右衛門役を好演している◆


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