16   2005年3月南座 菊之助の成長「児雷也豪傑譚話」
更新日時:
2005/03/07 
 
 菊之助がうまくなった。いつかはそういう日の来ることを心待ちにしてはいたが、予想より早くその日はやって来た。若手中心の花形歌舞伎では主役が回ってきても、若手が古典歌舞伎の主たる役をつとめてもほとんど参考にならない。菊之助のように将来、歌舞伎の大名跡を継ぐ役者にはいつもよい役が回ってくる。
 
 いい役ばかり演じていたのでは自分の姿が見えない。それゆえ自分を正当に評価するのは至難のわざである。自分の下手さ加減に気づいてはいるが、どこがどうまずいのかはっきり認識するにはいたっていない。あるいは、それがわかっていたとしても、どうすればよいか考えあぐねている。過去の公演のビデオやDVDを見てもラチがあかず悶々とする。
 
 菊之助がたどってきた道はおよそ上記の通りではあるまいか。前回、菊之助をみたのは昨年7月の松竹座「市川海老蔵襲名披露」だった。「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)のお富役であったが、海老蔵の与三郎とともにお世辞にもよかったとはいえなかった。
 
 半年前の菊之助は顔の拵(こしら)えすらすっきり決まっていないありさまで、しかも、座っているあいだはまだしも、立つと、なりが大きいのと腰高がやたらと目立ち色気なく、世話モノ特有のくだけてはいてもやわらかな薫りが舞台に立ちのぼらないのである。菊之助が一皮むけて先輩女形と肩をならべるには、そこをなんとかしないといけなかった。
 
 そのなんとかしないとならない課題を3月南座「児雷也豪傑譚話」(じらいやごうけつものがたり)で、もののみごとに菊之助は片づけてしまった。第一幕、舞台正面セリからの出、セリがじわ〜と上がって、目を閉じた菊之助の顔。これを見ただけで(私はたまたま一階最前列真ん中に陣取っていた)この人の成長ぶりがすべてわかった。
3bほどしか離れていないところにいるのは以前の菊之助ではなく、児雷也のハラのできた、さらにいえば、この芝居の役のハラをしっかり持った眉目秀麗そのものの菊之助だった。
 
 せりふ回しも以前とちがいメリハリがきき、しかも流暢になっていた。ことばが生き生きとしてカドカドの決まりもよく、あきらかな成長を感じさせるに十分であった。そればかりではない、身体にムダな動きがなくなった。それゆえきれいにみえる。色気も出た。
そして菊之助の顔が前より面長になっている。これは大きなプラス材料で、面長さは古風をあらわし、それだけで役のガラに合うのである。よく見ると、血はつながっていないのに、五代目菊五郎の面長な顔立ちに似ているようにも思うである。
 
 第二幕は、今回の狂言・児雷也では演出も手がけた菊五郎の独壇場。歌舞伎座の俳優祭もかくあらんというほどのサービス、極楽鳥の羽もどきの派手な大扇子と光りものを身につけ自在にふるまう。客席は爆笑の渦である。
団蔵が菊五郎につきあい、滑稽な味を出している。団蔵の奥方が菊五郎で、娘が松也。この松也が菊五郎とともにブランド志向の現代娘、いかにもそのへんにいるというおもむき。第一幕の権十郎の嫡男役から松也、ここまでうまく化けた。
 
 第三幕の菊之助は「摂州合邦辻」の俊徳丸を思わせるような病の児雷也。芝雀が玉手のごとく芝居がすすむ。ここでも菊之助の俊徳丸風は品格があってよい。児雷也は室町時代の名家の遺児というハラが菊之助にそなわっているからである。
今回の狂言にひとつだけ注文をつけるとしたら、第二幕の勅使から児雷也に変わる間に一工夫あったら(児雷也が妖術使いとしても、その変化の仕方に思い入れがない)ということくらいで、菊之助の著しい成長ぶりに拍手。
 
 「弁天小僧」、「吉野山」の狐忠信、「十六夜清心」の清心、「法界坊」など、菊五郎の得意とする狂言を菊之助がどうやるか、いまから楽しみである。
それにしても今回の4時間15分におよぶ(55分の幕間をのぞいても3時間20分)通し狂言を、スーパー歌舞伎的要素を入れたとはいえ、長々した物語を破綻もきたさず、退屈もさせず、一気にみさせた菊五郎演出は見事。 


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