1   十二世市川團十郎
更新日時:
2013/02/06 
 
 2012年5月松竹座「絵本太功記・尼ヶ崎閑居の場」が團十郎の見納めになるかもしれないという予感はあった。が、それを昨年5月24日に書き記すことは憚られた。「どうしたのかというほかないような出来」と評するしかなかった。風格と大きさは十分保持していたが精彩がなく豪胆さも欠いていた。急性前骨髄球性白血病の治療、長年におよぶ抗ガン剤投与のため体力免疫力はおとろえ、生命力を失いつつあったのかもしれない。
 
 十二世市川團十郎は苦労の人であり、勉学の人であり、精進の人だった。そしてなによりもあたたかさを感じる癒しの人だった。芸風は不羈磊落、闊達、快活。助六、矢の根ほかの曽我五郎をやって團十郎の右にでる役者はいなかった。芸の大きさ、明快さは「暫」(しばらく)の鎌倉権五郎景正にあきらかである。團十郎の真骨頂は豪放快活のみにとどまらず、「毛抜」粂寺弾正の滑稽味にも表出された。
しかしそれまで花のあった團十郎の芝居にすばらしい実がなったのは荒事ではなく、現坂田藤十郎と同座した1998年正月松竹座昼の部「土屋主税」の大高源吾だった。颯爽としながら情味の濃い源吾は後ろ姿にもなんともいえないうるおいがあった。夜の部「阿古屋」で玉三郎の遊女阿古屋に團十郎は畠山重忠をやったが、押し出しのよさといいきめの細かさといい、まことに結構な重忠で、阿古屋が楽器(琴、三味線、胡弓)を演奏しているあいだに時々薄目をあけて客席をみていたのを思い出す。
 
 あれはなんだったのだろう。退屈まぎれに客席を忍び見していたのか、サービス精神の発露だったのか、楽器を弾く玉三郎をほとんどみず、半立ちで黙って聴いている團十郎を凝視する家内の目が気になったのか。読者諸氏はまさかと思われるかもしれないが、藤十郎、田之助、三津五郎、翫雀、橋之助など、舞台から客席を盗み見している歌舞伎役者は多い。贔屓は役者の役者ぶりをみているだけではない、そうしたしぐさを見てさらに贔屓度を高めることもあるのだ。
 
 1998年4月松竹座の十五代目片岡仁左衛門襲名披露だったか、夜の部「身替座禅」で菊五郎が山蔭右京、團十郎が玉の井をやった。あれほど息のあった右京と玉の井は空前絶後といってもよく、モデルは後水尾帝と中宮・東福門院徳川(秀忠の娘)。悋気盛んな奥方と好色盛んな殿方の抱腹絶倒狂言で、逢瀬を楽しんだ菊五郎が花道にでてくると、客席に酒のにおいがただようかのごとき上々の演しものであった。
そして1999年12月歌舞伎座昼の部「釣女」における絶好の顔合わせも記憶に残る。太郎冠者を勘九郎(当時)、醜女を團十郎、上臈を玉三郎、大名某を猿之助(当時)がやった。人気実力ともに群を抜く役者の共演を見逃す手はない。二度と望めない顔ぶれだった。なにが一番笑わせてくれたかというと團十郎の醜女である。
 
 團十郎(堀越夏雄)の父十一世市川團十郎(堀越治雄)は七世松本幸四郎(伊勢から上京。歌舞伎とは無縁の人だった)の長男で、弟は八世幸四郎と二世尾上松香Bふつうにいけば團十郎の父が八世幸四郎を受け継ぐはずだったが、市川宗家である堀越家にしかるべき後継者がいなかったことから宗家の養子となる。一度は結婚した堀越治雄はまもなく離婚。紆余曲折をへて七世幸四郎の藤間家で家事手伝いをしていた女性(十二世の母)と暮らしはじめる。
ある日、夏雄の母がきれいなK紋付きを着ていた。どうなったのかと不安まじりにようすをうかがっていたら、どうも嫁ぐ気配があってびっくり。時々来てはちゃぶ台をひっくり返した人がお父さんのはずなのに、ちゃぶ台返しの前に好きな卵焼きから食べるすべもおぼえたのに、いったいどこに嫁ぐのかいっそう不安に襲われる。が、お父さんのところに嫁ぐとわかってほっとした。幼い子供のころ当代團十郎は母とともに日陰の人だったのである。
 
 先代團十郎と十七世中村勘三郎は明治42年(1909)生まれの同い年、芸風はまったく異なるが、互いに意地を張り合うライバルだった。歌舞伎座の楽屋をめぐっても最上室にこだわった。勘三郎はこだわり続けた。先代團十郎の性格は鷹揚な反面、仲間内のことは神経質な部分もあり、関係者は勘三郎・團十郎の対応についてはらはらする場面もあったという。
 
 小生の家内の姉は團十郎と同じ2004年に急性前骨髄球性白血病を発症、その後ほぼ團十郎とどうようの経過をたどり(白血病が再発し二度目の入院加療)、昨夏、三度目の入院後に死去した。昨秋、金沢の新聞社に勤務する朋友に次回入院するようなことになれば團十郎も危ないと言った。その通りになって言葉もない。
昨年12月19日来、病室の團十郎がまぶたに浮かべたのは歌舞伎のことだけではないだろう。心のなかに封印した母のすがたを思い浮かべていたのではなかったろうか。團十郎が継承したのは市川宗家の大看板だけではなかった、誰からも慕われる明るさと実直さを父から、そしてたぐいまれな辛抱強さを母から継承したのである。総じて團十郎の稀有なる人間力の源はそこに由来する。
 
 公私にわたる長年の親友菊五郎の落胆はいかばかりか。さしもの菊五郎もがっくりきて、おとろえの目立たないことを願いたい。先代猿之助が倒れ、勘三郎が逝き、いままた團十郎が逝き、菊五郎になにかあれば歌舞伎界はがたがたになる。藤十郎、仁左衛門、吉右衛門、三津五郎ががんばっても補うるものではないだろう。
ふたたび團十郎の助六をみれないかと思うとさみしさでいっぱいになる。江戸の花は歌舞伎の花である。團十郎の行動と目標は終始一貫していた。修錬と人間追求が見事に融合していた。季節はめぐり、花はめぐり、とどまることはない。いまはただ團十郎の陽気さと人間力がなつかしい。


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