行き違い
 
 人がいて現世で生活すれば、百人の顔が全部異なるように、百人の立場と考え方もまた異なる。この世は行き違いの連鎖でなっており、行き違いが起きてはじめて自他の何たるやを知る。そして行き違いの傷跡は、交友と馴染みの長さ、深さに比例する。
 
 人の考えや価値観を決定づけるのは、その人の性格による場合もあるが、立場によって左右されることもある。Aの立場ならOKでも、Bの立場ではNOということもあり、無論その逆もある。実はこの立場というのがとんでもない曲者で、相手の立場に立ってモノを考え、事を運んだつもりでも、相手にとって迷惑千万ということもある。
 
 また、相手の立場など完全に無視して事を運んだが、結果的に相手の利に叶い大喜びということもある。しかし相手の立場に立たない時には、顰蹙を買うくらいならよいほうで、たいていは相手を怒らせるか悲しませるのが落ちである。とかくこの世は住みにくいと漱石は云った。
 
 人はとかく厄介である。天使のような顔をした悪魔もいる、悪魔のような顔をした天使は‥たぶんいるだろう。善人といえども悪をなす。悪人といえども善をなす。善人と悪人とを隔てるのは、悪を悪と気付くか気付かないかの違いではなかろうか。
 
 善人が悪事に手を染めた時、彼は悪ということを知っているから自省の念を持つ。ところが悪人は、悪をなしているという自覚がないので自省の念など持ちようがない。悪を犯したから悪人ではない、悪の自覚がないから悪人なのだ。
 
 人はみな程度の差はあるが物欲を持つ。しかし物欲、あるいは所有欲などというものは最初からあるのではない、所有するから芽生えるのである。所有欲に追い立てられ、所有欲の奴隷にならぬよう肝に銘じてきたつもりの人も、賢いようでも所詮人の子、ふと見上げたら、所有欲という名の天井の下で暮らしていた。
 
 人には愚かな部分がいっぱいあって、それゆえに人なのかもしれない。知るべきは愚かさの認識である。愚かさの認識のないことが愚かさの最たるものである。愚かであろうがなかろうが、人はある種の迫害を免れえない。行き違いが高じると迫害となるのである。易々と迫害を受けるのは誰しも避けたいわけで、いきおい自己防衛本能がはたらく。
 
 黙っていても通り過ぎてゆく非難、不意に襲ってくる謂れなき非難、とかくこの世は難しい。愛があっても万事解決するわけのものではなく、愛あればこそ、事を余計にこじれさせることもある。すべて善人の輪の中にも行き違いは生じる。善意は必ずしも人を幸せにするとは限らない、だから善意はややこしい。人はみな自分の我を持っている。
 
 誰も望まないのに、我が善意を歪めることもある。善意の行きつく先は常に不明である。行き違いは…夜も眠れないほどわが身を悩ませる。
ふと天井を見上げれば、行き違いが雲霞のごとく覆っていた。
 
更新日時:
2002/12/06

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