新・意識改革T
 
 まだ戦後間もない頃、つまり私の少年時代、個人主義は稀薄であった。ここでいう個人主義とは欧米流個人主義という概念によるものではなく、いわば町内の個人主義とでもいうべきそれの事である。
 
 私の暮らしていた町では個人主義はどういうわけかなおざりにされ、近所主義が流行していた。いや、流行ではない、むしろ蔓延というほうが実情に近いかもしれない。近所主義などと勿体ぶってなどと思うことなかれ、近所主義とは平たくいうと、助け合い意識の発露なのだから。
 
 私はいまだに不思議に思うことがあって、民主主義なるものが実はよく分からない。どう分からないかというと、そもそも民主主義は大義名分でもなければ目的でもないはずであるのに、政治家という生き物は、まるでそれ自体が大目的でもあるかのように声高に叫ぶからなのだ。彼らが度々口にするのは議会制民主主義で、さも議会に居る自分たちが主人公で、民主主義は目的なのである。とんでもない、主人公はわれわれである。
 
 そして、私の中で民主主義は単なる手段・方法にすぎず、普通選挙(この普通という事が重要)、市場経済などがそれにあたり、選挙や市場経済は目的ではない。目的は各個人の心に存在するのであってみれば。
 
 民主主義の名の下に白昼堂々と行われているのは、政党間の傲慢と怠惰と妄執による絶えざる抗争、裏取引、足の引っ張り合いであって、納税者には大迷惑な事ばかりなのだ。
 
 その事に私たちが支払う年間コストは膨大である。彼らに支払う給料もそうであるが、利権というひも付き援助や税金の無駄使いの金額を思うと卒倒する。私はそれを考えるといつも、自らを慰めるために言い聞かせる。税金の天才のモットーは、税金を使わぬ能力であると。
 
 木に竹をつないで恐縮であるが、近所主義とは、自分のためではなく人のために力を尽くすことをいう。そんな、人はみな自分が可愛いから、人のためなんて時代遅れ、という人に申し上げよう。近所主義とは実のところきわめて合理的にできているのだ。全員が回転寿司の寿司を作っているのだから、長い目で見れば誰も損をしないのである。
 
 いつの頃か、近所主義が消えていった。そして、いつの頃からか意識改革という単語が使われはじめた。
 
                   (未完)
 
 
更新日時:
2002/03/08

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