新・意識改革U
 
 ヨーロッパを旅して思うことのひとつは、彼我の個人主義の相違ということである。もの心がついてから、自分という存在をどこかで意識するようになったが、町内の近所主義の範疇では助け合いが美徳であったから、味噌・醤油の貸し借りは言うまでもなく、衣類・金銭の貸与まで、貸し借りのできるものなら何でも提供するのが慣わしであった。
 
 近所づきあいは近所主義の実践であり、当時の個人主義とは、近所という「最小単位の世間」の中で、自分をいかに快適に、美しく保っていこうかという美意識なのである。
 
 ちゃんちゃら可笑しいなどとバカにしてはなりませんぞ、われわれは、良くも悪くもこの美意識を行動の規範にしているところがあるんです。中国・韓国でいうところのメンツと似ているようでいて違うのは、まさに美意識の相違。かの国の人は自分を救うために意地を張るが、この国では相手を救うために犠牲となる。
 
 日本は歴史上、貴族・武家・農民という階級社会が存在したが、それはほかの国も事情を異にするとはいえ階級社会はあったわけで、彼我の相違は、日本の場合、どの階級でも畢竟個人を助けるのは個人であるという考え方であったろう。なにを愚かな、そんなことは自明の理ではとおっしゃる方には、ヨーロッパではチト違うと申し上げよう。
 
 むこうでは、周知のごとく個人を救うのは個人ではなく神である。神というと甚だ抽象的なので、信仰であると言っておきましょう。 「天は自ら助くるものを助く」(Heaven helps those who help themselves.)のであり、個人が他人の力をアテにしてはならないのである。
 
 ヨーロッパでは中世までに、教会の広場で一年の罪を告白・懺悔して、みなに許しを乞う告解制度が浸透(現在もカトリック教会の祭壇近くに告解席がある)したが、日本に伝播したキリスト教以外の宗教の教えでは、やや様相を異にした。
 
 罪を告白し、許しを乞うのは憚られるという考え、あるいは美意識が根底にあり、罪や穢れはだれかに祓(はら)ってもらうか、禊(みそ)いでもらうという思想的背景が存在した。時には神官が、また僧侶が、当人の代わりに罪・穢れを祓うという役目を担っていたのである。
 
 近所主義というか、個人同士が助け合いを実行することをよしとする風土であったはずが、罪・懺悔となると話が違ってくるのである。この違いが、実は意識改革という問題に大きく関わってくるのだ。
 
更新日時:
2002/03/10

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