新・意識改革V
 
 「自らの罪を告白して懺悔する」のが告解であるのだが、告解という言葉自体、大方の同朋には馴染みが薄かろうし、告解の具体例で現実味のあるものということになると、これがありそうで無い。まさに雲をつかむような話である。
 
 そんな具合であるから、私は半ばあきらめていた。ところが、思いも寄らぬ所から告解の具体例が飛び出てきたのである。
 
 米国・前大統領クリントンのことを記憶にのこしておられる読者諸氏におかれてはご承知のごとく、モニカ・ルインシキーさんとの不適切な関係にかかわるクリントン氏のテレビ出演で告解が登場したのだった。
 
 クリントン氏は、米国民に対してモニカさんとの情事を告白し、反省の意を表明して懺悔したのである。中世ヨーロッパにおいて、教会前広場で聴衆を前にして行われていた告解。それはすでに11〜12世紀に定着していた。
 
 なに、あれはクリントン陣営の政治的判断であって、次期大統領選に出馬するクリントンの茶番である、そう断じたプレスは多く、現に日本のメディアの殆どがそういう論調であった。告解に言及するメディアは皆無であったように記憶する。
 
 政治的判断であるのは誰にでも分かっている。問題は、どういう認識でそういう判断がなされたか、そこが重要なのである。(クリントン陣営の中に、大統領選を乗り切るために「告解」でいこう、という知恵者の存在があったはずだと私は推測する)
 
 米国民は、政治判断の良否で物事の良否を決めているわけのものではなかろう。かれらの多くは、カトリック・プロテスタントの別を問わず、政治判断であることを承知で、告解後のクリントン氏を容認した。告解をしたものは概ね許されるのである。これは理屈の問題ではない、文化と慣習の問題なのだ。あるいは、宗教的属性の問題。
 
 宗教的属性とは、近所主義同様私の造語であるが、かいつまんで言うと、宗教が影響を及ぼすであろう考え方、または拘束力のことをいう。
 
 クリントン氏は正直にモニカさんとの関係を認めた。米国民はそれを告解と受けとめたのである。私たちには理解の及ばぬ事かもしれないが。
 
 
 
更新日時:
2002/03/11

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