新・意識改革W
 
 私たちが告白したがらないのはなぜか。それは、私たちが告白を忌み嫌うというわけのものではなく、しないですむのであれば避けたいという意識がはたらくものであるように思える。
 
 あれだけ「ここだけの話」が好きなわりには、告白を避けて通るのである。もっとも、ここだけの話はその日の内に四方八方へ流布されるのではあるが。
 
 ここだけの話は、話す側も聞く側も、ここだけで留まる事はないという暗黙の了解があるように思われるのであるが、性懲りもなくここだけの話は繰り返される。これはもう、癖というより文化といっても言い過ぎではないような類のものである。
 
 そして私たちの文化は、秘伝、秘薬、隠し味の文化である。読んで字のごとく、隠すこと、秘密にすることによって値打ちが出るという文化。幻のなんとかというのも好きですな、この国の人々は。
 
 私たちの日常には、否が応でも上記の事を許容する習わしがあり、あろうことか、それらは私たちの日常にある種の彩りを付与しているとさえ思えるふしがある。好むと好まざるとにかかわらず、私たちの意識の中に、秘伝や隠し味を認める何かが存在するのだ。
 
 志を同じうする人たちが、不正や疑惑にまみれた議員や官僚をかばったり容認したりするのも、単に利害が一致するという理由によるものだけでなく、意識の中にそうした文化、価値観の存在があるからではないかと訝(いぶか)ってしまう。もしそうだとしたら恐い話である。
 
 利害関係だけなら、利害が齟齬をきたすか衝突すれば消滅するが、当人の意識の内にそのような意識が存在し続けるのであれば、どうにもこうにも解決の糸口は見つからない。
 
 世阿弥は「秘すれば花」といった。花は散るから、散るのを惜しむ心が美しい。それが昂じて、秘す(隠す)ことにより、花はいっそう美しいものになるという精神世界が創出された。
 
 足利将軍家との対立から佐渡島に流された後、八十余年の生涯を終えるまで、世阿弥は花と秘に拘泥した。花と秘にこだわるのは、ひとり世阿弥だけではないだろう。私たちの心の中にもそれを是とする何かが存在するように思う。
 
 秘伝、隠し味という概念、そして、それらを尊重していこうとする意思、それこそ日本文化の根底に横たわっているものではあるまいか。だから隠し味の文化は油断がならないのである。
 
                      (未完)
 
更新日時:
2002/03/18

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