新・意識改革X
 
 人は真実を見分ける能力を持っていると思うが、物事の実相を見極める力を持っているのは、逆境にある人間だけではないだろうか。
 
 私たちははたして自らの意識を変えうるであろうか。意識改革とは自分自身を変えることにほかならない。日本の長い歴史の中で、思想的あるいは宗教的背景のいかんを問わず、人が自分の意識を変革するという発想があったのだろうか。たしかに、個人レベルではそういう発想をした人はいたと思うのだが、大衆運動にまで発展したことはなかった。
 
 私は、自分自身を変えるという発想が、キリスト教的な禁欲主義と密接に関係しているように思う。古代インドで釈迦が唱えたという一種の禁欲主義は、自らの悟りのためのそれであって、広く大衆に働きかける類のものではなかったし、現に、そうした禁欲主義は、地元インドだけでなく、東洋一帯で支持されることはなかったのである。
 
 中世ヨーロッパでは、聖フランチェスコ(12〜13世紀・アッシジ)などの、後世いわゆる聖人と称賛された市井の民や、彼らの弟子または賛同者たちが、多数の人々を誘ったようである。時代が中世ともなると、キリスト教はかなり浸透していたから、勧誘する側の無欲もあって、禁欲主義は広域に波及していった。
 
 私有財産、肉食、性交などを禁欲するというのは、考えようによっては決して悦ばしい事とはいえないのだが、それを実践することにより自分を変革できるという、確信に充ちた思考が誕生したのだ。いまでもそうであると思うが、よくよく重大な事を実践し、最後まで成し遂げなければ、人は自分を変える事はおろか、その糸口さえ見い出せないのであってみれば。
 
 それにしても禁欲主義とはいかなることであったのか。これはもう、民主主義などというひとつの手段とは異種の、また、民主主義の定義云々とは無縁の、いわば人間の存在の根幹に関わる類のものであった。
 
 禁欲主義が支持されたのは、それを実践すれば、生きたまま聖人になれるという強い信念に基づいている(東洋では死後仏や神になるという思想があるが)。自己変革はこうしてはかられた。
 
 自然と渾然一体となり、自然を崇拝するという考えとは対極的である。あるがままが尊重され、自然(=自分の欲望に逆らうのは不自然=)に順(したが)うことが自然とされた国との考え方の差は大きい。
 
 さて、中世ヨーロッパの禁欲主義は一種の近所主義であると私は思っている。町内の近所主義には崇高な思想も目的もないかもしれないが、助け合いと協力の精神は同じ。個人々々は一見ばらばらのようにみえても、実は、みながやるから自分もやるという仲間意識に支えられている。個人主義の実相は、意外とそんな所にある。無論、言うまでもないが、個人主義と自己中心主義は別物である。
 
 仲間意識の弥栄(いやさか)と存続、あえて近所主義の目的を言えば、それが目的であろう。だれが得をするということもなく、だれが損をするわけでもなく…。
 
 幾世代にもわたり変わらぬ近所が存在し、先祖からの考えや付き合いを大切にする。祖父母からも父母からも、何が大事で、何をすべきかを子は教え込まれているし、その教えの正しさ、尊さも知っている。日本でこういう話をすれば、あいつは変わり者だという烙印を押されかねないが。
 
 一個人が自分を変えたり、意識を改革することは至難のわざである。自分のことだから自分で決められる、自分でいかようにも変えられる、そう思うのは間違いではない。しかしながら、あなたは自分の意識改革が可能だとお思いであろうか。どうだろう、私には分からない。
 
                       (了)  
 
 
更新日時:
2002/03/19

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