南無大師遍照金剛・2
 
 弘法大師の真言宗あるいは真言密教の根本経典は「大日経」、「金剛頂経」であるが、元来インドへ渡来した中国の僧たちが経典を持ち帰り、それを中国語に訳したものである。しかし、そんな事はどうでもよろしい。経典の解釈など、なに、ありがたくもなんともないのである。それは禅問答がちっとも面白くないのと同様で、講釈がどれだけ高邁な精神に基づいたものであっても、人間に理解されなければ意味がない。
 
 弘法大師=お大師さんがいまなお信仰の対象として多くの人々の支えとなっているのは、そういう小難しい講釈によるものではない。南無大師遍照金剛と唱えることにより、心の平安を得たいと願うからである。
 
 「門前の小僧習わぬ経を読む」という古くからのことわざもある。小僧はお経の意味などほとんど理解していない。理解することより、耳で聴き、自ら経を読むことのほうが大切なのだから。「深窓の貴人習った経を読まず」ではチト困るのである。
 
 母方の祖母が信仰心の篤い人であった。郷里は鳥取県淀江町であるが、北海道利尻島の網元に嫁いで十人の子に恵まれた。そして、祖母は一番下の女の子に自らの篤い信仰心を託した。私の母である。「バカを呼べ」と言われれば母を呼ぶ、というほどに、私の母はお人好しであった。
 
 祖母は幼い母を連れて全国を行脚した。郷里に近い大山寺、大神山神社、四国八十八カ所、高野山、熊野神宮などなど。祖母も母も、信仰の道に生きるしか他に生きようのない人であった。幸か不幸か、私はそんな母の影響を強く受けて育った。私も幼い頃、母に伴われて山陰や紀州のお寺や神社に幾度となく詣でた。それは、私の旅行好きとなにか関係があるのかもしれない。
 
 私にとって、神前や仏前に向かって手を合わせることは、いわば日常行為であった。神仏は人の心に宿るとは思うのだが、その神仏に手を合わせる気持を持とうと思う心が大切。それは、私の中で長い年月をかけて培われてきた確信といえるのかもしれない。つまりは、神仏に感謝し、人に感謝し‥ということなのだと思う。
 
 人間である限りにおいて、私たちは無欲ではいられない。五欲の幾つからかは逃れる事ができても、食欲から逃れる事はきわめて難しい。そしてまた、欲望ではないけれど、人を愛するという始源のおもいからも逃れられないであろう。
 
 般若心経の経文は、実にそういう人間の心の奥底を見抜き、言い当て、懊悩するなら経を読み、心静かになりなさい、という事を教えているような気がするのである。
 
                       (了)
 
更新日時:
2002/03/22

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