カオス
 
 カオス=chaosは、「宇宙生成の原初に出現した万物の混沌状態」を意味するギリシア語で、紀元前700年頃初出した。現在は単に混沌という意味で使われる事が多いかと思う。
 
 混沌という言葉は、古代中国にも同様の意味のものが文献にみられ、それは要するに神々が現れる以前、または神出現時の宇宙の状態を示す言葉として記されている。私はこういう講釈をいうのが嫌いで、出典や故事来歴などどうでもいいように思うし、今日的意味さえ省略して、ただの混沌と表記するだけで十分であると考えている。問題は中味である。
 
 お互いが学校の教師でもなく、生徒でもないのであるからして、「さあ、どうだ」と言わんばかりの物言いをするHPを目にすると、「ナンダ、コリャ」と阿呆らしくなるのだ。講釈や蘊蓄を述べるのはヨソでしてちょんまげ、と文句のひとつも言いたくなるのである。
 
 特に海外旅行のサイトはその傾向が強く、この情報化時代、衛星放送ほかで誰もが知っているような事を、但し書きで述べているようなHPを見ると背中が寒くなる。いわくドコソコは冬期休館中です、いわく文化財は市民が修復に尽力してきました、いわく御存知の方は少ないと思いますが、などなど。いいかげんにしなさい、みな御存知である。
 
 さて、混沌であるが、古事記の書き出しは次のごとくとなっている。
 
「天地初めて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かみむすひのかみ。此の三柱(みはしら)の神は、並(みな)独神(ひとりがみ)と成り座(ま)して、身を隠したまひき。」
 
 いわゆる天地初発のありさまの記述なのだが、ここで重要なのは「成れる」の成るという語彙である。洋の東西を問わず、神話の創造は混沌からの創造であり、この混沌こそがすべての始まりなのである。そして、混沌から生まれるのが成るという事なのである。人の誕生も成るであったし、神々も在ったのではなく、成ったのである。
 
 神話の類型というのは種々あるようでいて、プロローグあるいはプレリュードは共通している。神々は無からではなく、カオス=混沌からコスモス=秩序を創造した、という点において…。
 
 カオス=混沌は、何もない宇宙の空洞でもなければ、形而上の絶対的始まりでもなく、いい表しようのないこの世の始まりなのである。そんな神代の昔のことなどと思うことなかれ、私たちは宇宙の何兆分の一以下の縮図であってみれば。夜空にまたたく星や、彼方にそびえる美しい山、見はるかす広い海を眺める時、なぜか懐かしい思いに駆られるのはそういうことであるまいか。私たちの中に星や山、海が存在するのでは‥。
 
 そしてまた、いつの世も、21世紀の今においてなお、人の心が混沌として定まらないことや、世界が混沌としていることを見るにつけ、天地創造の時代に較べていかほど進歩したのか首をかしげざるをえないのである。
 
 私たちの歴史を遙か彼方に遡れば、私たちは混沌から誕生し、混沌は、いまなお私たちの心の中にある。私たちが宇宙の縮図と思う所以がそこにある。しかし神は、人がいつかは混沌からぬけ出すようにお造りになられた、とも思うのである。
 
 人の心の混沌は、天地創造以前、天之御中主神の出現前の状態をあらわしているが、一方で、人が心をみがき、智慧を出し、創意工夫することによって、混沌から脱出するということではなかろうか。神々がその歴史を繰り返されたように、人もまた心の中で天地創造の歴史を繰り返すのである。
 
                       (了)
 
更新日時:
2002/03/24

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