カガミ
 
 人は往々にして自分の姿がみえない。見えると思っているだけである。他人の姿が見えるほどに自分の姿が見えるのなら問題はないが、元々人はそういう風にはつくられていないのである。
 
 これはもう教育や躾をどれだけ豊富に、あるいは厳しく受けていても、自省の念が人並みはずれて強い人も、見えないものは見えないのであり、どうにもこうにも厄介な問題ではある。
 
 自分の姿が見えなくても、日常生活において特別差し障りがあるわけのものでもないが、自分が見えないと、夫婦・親子間は言うに及ばず、社会生活を営む上で一悶着おきる原因となる事もある。「人の振り見てわが振り直せ」とはいうが、なかなかそうはいかないのが常なのである。
 
 人に対しては何かと批判し、「そりゃまずいよ、直したまえ」と思っても、それは自分には一切関係のない話と思いこんでいるから始末が悪い。「おい、おい、そりゃお前さんにもいえるヨ」と言っても、当人には分からない。なに、分かっていても、「あんたにだけは言われたくない」などと思っているので聞く耳を持たないのだ。
 
 さてさて、いつも窮屈な話では肩がこるので、きょうは別の話を。
 
 昔々、鏡がまだ貴重品で庶民には珍しかった頃、嫁いでいく娘に母親が、「これは私、なにか苦しいことやつらいことがあったら、この葛籠(つづら)を開けなさい」と言います。
 
 蜂蜜のような日々が過ぎ、夫がいままでとは違う態度を取るようになったある日、彼女はつらくて悲しくて、どうしたらいいものか途方にくれた時、押し入れにしまってあった葛籠を思い出します。
 
 泣きぬれた彼女が押入れに入り込み、葛籠を開けると、なんと葛籠の中には母がいるではありませんか。 「あ、お母さん」、思わず彼女は叫び声をあげます。
 
 そして、葛籠の中の母も一緒に泣いてくれているのです。あぁ、ありがたい。お母さんは葛籠にいて、いつも私のことを心配してくれている。
 
 それからの彼女は、悲しいこと、つらいこと、うれしいことがあると、いつも押入れに入って、母と共に泣いたり、笑ったりするようになりました。
 
 ところが、旦那はといいますと、たびたび押入れに出入りする嫁を変に思い、もしやあそこで色男と浮気しているのではないかと疑います。そこで旦那は妻の留守を見計らい、押入れの葛籠を開けるのです。
 
 ところがどうでしょう、葛籠の中には、品のない貧相な男がひとりいるではありませんか。旦那はびっくり仰天して、知り合いのお寺に駆け込みます。
 
 「和尚、ウチのが間男しています。男も押入れに隠れているから、すぐ来てください」
 
 和尚さんは、取るものもとりあえず旦那の家に駆けつけます。そして、葛籠をのぞいた和尚さんが言うのです。
 
 「たしかに男はいるが、頭を丸めて改心しているから、許しておやり」
 
 
 
 
更新日時:
2002/03/25

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