幸福論プロローグ
 
 禍福はあざなえる縄のごとしと云う。古代ギリシアの昔から現代に至るまで、幸福とはなんぞやと無数の人々が、ある時は訥々と、ある時は口角泡を飛ばし、ある時は皮肉まじりに、またある時は声低く語ってきたことであろう。だが、幸福を語るときは、愛を語るときのように喜々として語ることはできない。愛を語るときは愚者も歓迎されるが、幸福論は愚者に対する寛容さを欠き、顰蹙(ひんしゅく)を買うことが多いからである。
 
 そういう前置きをしながらも、にわか雨のような出来心で自前の幸福論を披露しようと考えたのも、自分の老いを実感する年齢に達したからではなく、この10年ほどの時間の経過の中で、それまでの45年とは異種の時代の変貌を実感しているからである。
 
 私はよくよく貧乏性にできているのか、神仏や人に感謝する気持は十分持ち合わせているのだが、自分のことを幸福だと感じたことがない。そもそも幸福とはなんぞや、と幸福を論ずる方々に訊きたいくらいのものである。いや、幸福を感じたことが一度もないなどと言い切るのは、いささか正確さを欠いている。じつは何度か感じたことはある、子供の頃、腹一杯ごはんを食べた時に。
 
 いまの若い世代の人たちをぼんやり眺めていると、不思議に思えてならないことが幾つかある。なぜ怒りっぽいのか、それもアホみたいなくだらない事にすぐ腹を立てる。人に注意されて言うことは「うるさい」のひとこと、ほかに言葉を知らないのだろうが、一日に使う語彙は10個もあれば事足りる。マジで、メッチャ、ウソー、スッゴーイ、っていうか、サイテー、マジギレ、どうせ、うるさい、ヤメテよ。3個しか使わない人もいる。
 
 ボキャブラリーは著しく少ない割に、不平不満は百曼陀羅いう。もっとも、語彙不足と使い方への無知が幸いして、不平も不満もまったく説得力がない。と書いているうちに、これマジで幸福論?と考え込んでしまう。
 
 
 さて、都会にあってはモノがあふれており、一軒々々の家庭においても、電話やテレビ、冷蔵庫のないお宅は珍しいであろう。生まれた時にはすでにそうした文明の利器が手元にあり、その恩恵を享受できるわけで、衣服や装飾品もわんさかと購入できる環境に恵まれている。なのに不足感いっぱいなのである。もっともっと欲しいという不満が渦巻き、購買意欲は衰えることをしらない。
 
 持っていないことへの不足感ではなく、もっと持ちたいことへの不足感。世の若年世代は不足感の固まりである。人は誰しも程度の差はあれ、五欲(食欲、財欲、色欲、睡眠欲、名欲)を持っていると人は説くが、不足感の根幹である購買欲というのはいかなるものであったのか。財欲に似て非なるもの、文明が生み出した鬼子か。
 
 私の妹が25年ほど前に、モノを所有することで心が豊かになると言った。それはそれで分からないでもなく、たしかにある種の人間心理の核心を衝いていなくもない。昔、「買い物しすぎる女たち」という本を読んだが、購買欲の際限のなさ、モノを所有するのが目的ではなく、買い物自体が目的化する女性の心理をうまく描いていた。
 
 まぁ、こういうことを書き連ねていくと、大方の女性を敵に回すのが関の山、何の得にもならないのを承知の上で、次回以降も連載していこうかと思っています。
 
                      (未完)
 
更新日時:
2002/04/06

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