幸福論序論1
 
 男と女の幸福の受けとめ方の違いは、与える歓びに関心があるか、与えられる歓びに関心があるかの違いといってもよろしかろう。じつに乱暴な言い方であると思うが、なに、幸福論と日常の幸福とは大きな落差の生じるものであってみれば、簡単明瞭に言うほうが実情に近い場合もある。
 
 とまあ、少し前までなら、男と女の幸せは別種のものという暗黙の了解があったのだが、いまはどこかに雲散霧消して、ほかのこと同様男女格差がなくなってきた。与えるのも与えられるのも、要はイニシアティブをとった側が与え、引っ張っていくわけであろうから。
 
 たしかに、机上の幸福論と実際の幸福との間には抜き差しならない誤差がある。19世紀〜20世紀の、主としてヨーロッパの著名な作家の書いた「幸福論」を読むと、なるほどと感心したり、思わず頬がゆるんだりするのだが、彼らの生きた時代はひとつの事を除いて男性優位、男主導の価値観に基づいており、洒脱なもの言いであっても、それは一種の余裕から生まれたことばの遊びの域を出ていない。
 
 ひとつの事というのは、申し上げるまでもなく閨房。この中だけは男は高慢ではいられなかった。ここで優位に立つのは常に女性であるのが望ましい。理由はあえて申しますまい、幸不幸が単純に出る場所ゆえ。
 
 前章で買い物依存症について書こうとしたが、それは別稿に譲るとして、21世紀の消費社会と幸福の関係をみるとしましょう。巷間不景気と盛んに言われている中で、若年世代の消費は順調のようである。そんな事はない、車を見なさい車を、という御仁もいようが、若い人が軽自動車に乗るのはトレンディだからであって、流行を追うマイカー族がRV車に乗る風潮と何ら変わらない。
 
 小泉政権が経済に弱いなどと御託を並べる人でも、おん自らは節約する気持など毛頭なく、時には浪費に励み、消費社会の一翼を担っておられましょう、若い世代とご一緒に。そしてそれは、多くのメーカーと小売業者に大いに貢献なさっているのです。あなた方がいなければこの国の消費はさらに低迷の度を深め、不況は果てのない底なし沼にはまり込むでありましょう。日本経済を下支えしているのはほかでもない、あなた方なのです。従って、私はあなた方(男を含む)を消費社会の女神と呼んではばからないのであります。
 
 閑話休題。
 
 人の幸不幸は、五体満足、快食快眠快便に左右されるとばかり思ってきた私は、いつの間にか時代遅れになってしまい、子供の頃から営々と育んできた教え、人に迷惑をかけない、人に不愉快な思いをさせない、人を頼らないという三無主義もすっかり錆びついてきた。
 
 三無主義に反した行いをすれば自分自身に腹が立ち、情けなくなって自分を責めた事も度々だった。人はきれいごとと非難したが、じゃあ君は、きれいごとを一度も実行せず、きたないことに手を染めてきたのか、心中そう思わずにいられなかった。
 
 そんな私は子供の頃、内弁慶と言われた。外で辛抱した分、家の中で反動となってあらわになるらしかった。いま考えればまさにそうであったように思う。外で自分を強くコントロールするために、そのモヤモヤが甘え現象となって出てきたのである。そんな風にして精神のバランスを保っていたのであろう。
 
 
 単刀直入にいうが、人が自分以外のことで幸福を意識するのは、子や妻や夫を深く愛した時に端を発するのではなかろうか。幸福は他者のために在る、そう感じるのは、そこに愛が介在するからではあるまいか。それまで与えられる立場にあった人でも、与えることによろこびを見出すのではないだろうか。
 
 どんなに強烈な自意識も、他者に対する強い愛の意識ほど強くない。そうでなければ愛は無意味である。自己愛などというものは空の空である。
 
                      (未完)
 
更新日時:
2002/04/07

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