幸福論序論終章
 
 川はいった。「こんな奴のことは信じるな。寄せては引き、引いては寄せる。茫洋として、腹の底で何を考えているかしれたものではない。私たちが濃密な栄養をたっぷりそそぎ込んでやっているのに、ひとかけらの感謝もないどころか、自分が生かされている事すら知ろうとしない奴なのだ。」
 
 山はいった。「そうだ、そうだ、あんな奴は信じるに足りぬ。この星の大部分を占有しているというだけで威張りくさっている。わしらがいて、森がいて、その実りを川が苦労して運び、その栄養分で生かされていることにまったく気づいていないのである。」
 
 空はいった。「そいつが昼間美しいのも、ワシの青を光の恵みで反映しているだけにすぎぬ。雲のやつがワシをおおった日には、そいつはみるみる内に青から灰色になっちまう。じゃが、山も大口たたけるわけではなかろう。ワシがいるから高さを誇れるのじゃろ。」
 
 風はいった。「オレは山からも話題の奴からも来ることができる。山から降りて来るとき、木々の梢を通るたびに森は礼を言ってくれるが、奴は波を立てるかうねるかで、まるで怒っているようだ。」
 
 みなの意見を聞いていた海は沈黙していた。
 
 川は再びいった。「口を閉ざしているだけが能ではなかろう。沈黙は金などと、ここでは通用しないぞ、何か言いたい事があれば言ってみたまえ。」
 
 海はものうげにゆっくりと口を開いた。「ご一同の云うとおりです。わたしはあなた方のはたらきのおかげでこうして生かされている。そして、この星全体の生命を維持する役目をあなた方と共に果たしている。しかし、わたしに云わせれば、もっとも信じられないのは他でもない、この星に住む人間です。彼らこそ、自分たちが生かされていることに気づいていない。」
 
 山と川はいった。「人間だと? あんな幸福な奴のことは口にするな。海よ、お前もたまにはいいことを云う、生かされているとはな。私たちは、お互いが相手を生かすことで生かされているのだ。生かされてこそ生きていけるのだ。しかし人間という奴は、そのことには気づいていない。幸福すぎて何も見えていないのだ。」
 
 山と川、空と風と海の話を聞いていた太陽がいった。
「幸福の話はするな。その星にこれほど光と温度を与えているのに、幸福とは何か分からぬ者が多すぎる。私は数百万年待ったが、礼を言ったのはほんのわずかじゃった。君たちとはちがうのじゃ。彼らが私たちに感謝することがあれば、それは、幼い頃と老いて後だけなのじゃ。彼らは、幼い頃と老いて後にしか幸福が見えないよう神がつくられたのじゃから。」
 
        
                       (了)
 
 
更新日時:
2002/04/10

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