住んでみないと…
 
 住んでみた人のほとんどが異口同音に口にするのがこのことばである。住んでみないと分からない、たいがいそう言う。この「住んでみないと分からない」というのは、3日や4日滞在しても町や住民のことは何も分からない、という意味で使われることが多いように思う。それを臆面もなく書く人がいるから恐ろしい。
 
 その町の住民にならなければ書いてはいけないの、そう聞き返したいところである。私は10代後半から20代半ばまで、足かけ7年東京で暮らした。最初の5年は渋谷の鶯谷町に住み、後半2年は新宿区下落合にいた。若かった事もあって、ずいぶん東京探索をした。おかげで、東京生まれ、東京育ちの友人・知人より東京に詳しくなった。
 
 しかし、東京のことはいまでも分からないし、東京は好きでもなく嫌いでもない。つまり私は東京を愛さなかった。だからよく分からないのかもしれない。30代後半から40代はじめまで、一時的に札幌の住民となった事もあった。札幌を愛したとは思えないが札幌は分かる。香港は4日ほどの滞在を10数年にわたり幾度となく繰り返した。50回以上行ったから、延べ日数は軽く200日を越える。
 
 香港には住んだことはないが実によく分かる。香港とは相性がすこぶるよいと思っている。シンガポールへも1980年から1985年の間、頻繁に往復した。特に81年〜84年にかけて毎月行っていた。クリスマスを何回シンガポールで過ごしたことだろうか。シンガポールの町も人も懇意になりはしたが、結局香港ほどは愛さなかった。
 
 私には「住んでみても分からない」町があるので、「住んでみないと分からない」というのは一種の自慢話ではないか、そう思っている。仕事や旅行などで海外に長期滞在した人の体験記が所狭しと本屋の旅行コーナーに並んでいて、そのあとがきに書かれる有名無名の作家の褒め言葉は決まって「住んでみないと、彼らと共に生きてみないと本当の姿は分からない」といった調子のものである。
 
 きみ、君、君は嫌いな人の事は3日どころか、1日で分かるのではありませんか。どこが嫌いで、なぜ嫌いなのか、嫌いな人は死んでも好きにはならないと思いませんか。なのに、嫌いだった人を好きになったことはありませんか。また、好きになるのに1年以上かけて好きになりますか。なぜ好きなのか分かりますか。
 
 町と人とは違うのではないか、そう言う人もいるだろう、だが同じなのである。同居して、しばらく立って好きになるなどという事はきわめて稀、たいがいは一目惚れしてぞっこんになって、そのまま一緒に住むのである。
 
 町も人も、それぞれの持つ良さはだいたい一目で分かる。住んでみないと分からないと云うのは、勿体ぶっているか、鈍感だからだと思う。
いいもの、おいしいもの、やさしさ、あたたかさはすぐに分かるのだ。意地悪、冷たさなどもじき分かることが多い。「多い」と書いているのは、しばらく立って分かる場合もあろうから。
 
 こういう事を書くと単細胞なやつと思われるが、なに、私たちの感性はけっこう単純にできているのです。感性そのものは、単純明快に物事の良し悪しや正否を決定するが、その決定に理屈をつけたがる何かが別の場所にいるのです。それが、住んでみないと…などとのたまうのです。
  

更新日時:
2002/05/31

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